序章〜足元〜
まず、全ての始まりとなった前述の"調査"について述べておこう。
現在京王線明大前駅付近に暮らすオレは、実はそれまであまり"京王線"に乗ったことが無かった。何故かと言うと、2004年(平成16年)に明大前に引っ越す以前は京王新線幡ヶ谷駅近くに住んでいた。こちらへ来たことがある方は解ると思うが、京王線は始発駅である新宿を出ると最初の停車駅は笹塚、都営新宿線との相互乗り入れを行っている京王新線は新宿〜初台〜幡ヶ谷〜そして笹塚、と停車する。じゃあ京王線は急行のように2駅をとばして運行してるのかと言うとそうでは無く、1978年(昭和53年)に京王新線が開通した際、元々京王線の駅だった初台と幡ヶ谷を京王新線路線の停車駅とし、京王線は別コースで笹塚まで一直線に行くようにしたのである(間違って乗って焦ったことある人、いるでしょ?)。
細かいことは後に書くが、元々地上にあった幡ヶ谷駅は1978年(昭和53年)に地下駅となり、その時点で既に地下駅だった初台はまんま地下、本線である京王線は新宿を出るとしばらく地下を走り、笹塚(駅は高架)手前で地上に出て来る。新線はと言うと、新宿地下の"新線新宿駅"から別ルートで地下駅の初台/幡ヶ谷に停まり、やはり笹塚の手前で地上へと出て来る、と言う仕組み。で、オレは大抵幡ヶ谷から新線でそのまま都営新宿線へと乗り入れる電車に乗っており、明大前に引っ越してからも京王線に乗るのは明大前〜代田橋〜笹塚間だけで、笹塚で新線に乗り換えて幡ヶ谷〜初台〜新線新宿、と言うルートを通っている。つまり、新線を利用しているオレは1978年(昭和53年)まで本線だった線路を走り、滅多に乗らない現在の本線は新たに掘られた"笹塚直通ルート"を走っている、と言うことだ。

.....いや、そう信じていた。2006年(平成16年)6月某日の、あの瞬間までは(ちょっとコワイよ、ここからは).....。
京王線は始発駅新宿から笹塚までノンストップ、京王新線は都営新宿線から初台、幡ヶ谷を通って笹塚へ
その日オレは新宿でJRに乗り換える為、普段の京王新線では無く明大前からいきなり新宿に着く京王線特急列車に乗っていた。車内は空いていたが、どうせ次で降りるのだからとipodを聴きつつボケ〜っとドアにもたれ掛かって立ち、高速で目の前を駆け抜ける地下トンネル内の蛍光灯をかろうじて視界に入れていた。すると、徐々に列車が減速を始めたのでそろそろ新宿に到着か、と思っていると、まだ駅では無いのに停車。イヤホンを外すと「停止信号です」のアナウンス。なんだまだか、と思ってイヤホンをまた耳に差し、再び窓の外に目をやった。
「.....!」

.....そこは、"真っ暗な駅のホーム"だった。そして、そこには"初台"の文字があった。数秒間、アタマが混乱した。「こ、これって間違って新線の線路に来ちゃったんじゃねーか?.....で、でも、昼間なのになんで駅が真っ暗なんだ!?」しかし数秒後、なんとなく推測がまとまり始める。「.....もしかして、昔使ってて今は使ってないホーム、とか?」良く見りゃちょっとした資材のようなものが積んであったり、妙にホコリっぽいように見えたりもする。そうこうしているウチに列車は動き出し、ほどなくちゃんと京王線(本線)の新宿駅ホームに到着したのである.....。
  おおお〜駅名板があ〜!、水飲み場があ〜!!
....."幽霊ホーム"を見た。
オレのアタマの中はとにかく真相を確かめたい欲求で溢れ、用件を終えて帰る際にもう一度京王線に乗り、今度は来た時と逆側の窓側に立って暗闇を睨み続けた。
-確かに真っ暗なホームはある-
錯角や心霊現象ではない。それに、初台駅は実は上り(新宿方面)と下り(笹塚方面)が別々の階にある特殊な駅なのだが、コレは明らかに上りと下りの真ん中に存在する。そしてやけに短い。更に、この路線はアタリマエだが幡ヶ谷駅を通らない。つまり、アレは現在使用中の初台駅では無い、と言うことだ。帰宅し、急いでPCの電源を入れ、internet検索を始める。

検索キーワードは"京王線 初台駅 地下 廃墟"。30数件がヒット。.....謎が解けた。

予想通り、オレが見たのは現在使われていない"旧・初台駅跡"であった。結局アレは元々地上を走っていた京王線を、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に合わせ、開催地に近い新宿〜初台間を渋滞対策として地下路線とした際の初台駅。が、15年後の1978年(昭和53年)の京王新線開通時に新たな路線を作り、同時に当時地上駅だった幡ヶ谷駅も地下化、新線用に新たに作ったのが新ルート+新初台駅/新幡ヶ谷駅で、本線は旧路線の初台駅ホームを過ぎたあたりから地上に出ていたのをほぼそのまま地下化した為に旧・初台駅はそのまま残った、と言うことだったのだ。いや〜、知らなかった。焦った。ヤバイモン見ちゃったかと思ったよ.....。

まあ、この手で有名なのは地下鉄の新橋とか萬世橋で、きっと他にもあるんだろうと思いながらついでに地下検索に突入。炭坑やモノレールなど、高度経済成長期を支えた産業の路線が随分と廃線になっていることを知る。そして、今度は「そう言や、今回の旧・初台駅みたいに、東京の地下にはいったい何が眠っているんだろう」と思い始める。小学校の時、学区主催で観た映画"教室205号"(原作:大石真)は好きだった。今でもテーマ曲が口ずさめる(30年前に1度聴いただけだよ!)。3人の小学生が学校で見つけた防空壕の中を25番目の教室(1学年4クラスだと6学年で24だから)と名付け、防空壕の存在を知らない教師や親達が行方不明だと騒ぐのを尻目に3人は友情を深めて行く、と言うストーリーだ。"秘密の場所"を持った子供達が羨ましくて、自分も何処かにそんな場所を持ちたくて探しまわったモンだ。オレの場合は学校の近くに発掘調査中の"国木田独歩住居跡"があって、良く誰もいない時に探検したっけ。

.....ま、それは良い(良くナイ)のだが、オレはこの一件でいくつかのそれまで知ることの無かった"地下施設"について目にすることとなった。防空壕もあるし、シェルターもある。へ〜え、ずいぶんと色んなものが東京の地下には眠ってるモンだ。

ここで、やっと本題(長かった.....)。オレの42年間の人生に於ける、住所遍歴を見てみよう。

1964(昭和39年)〜東京都渋谷区神山町2番地
1972(昭和45年)〜東京都渋谷区代々木5丁目36番地
1992(平成04年)〜東京都渋谷区本町6丁目
2000(平成12年)〜東京都渋谷区本町6丁目(上記とは別住所)
2004(平成16年)〜東京都杉並区某所(明大前)

きっと察しの良い/詳しい人はこれだけで「なるほど」とか思ったりするのだろう。計4度の引越をしているが、これらは全てこちらの都合では無く、1回目が両親の離婚によるものなのを除けば全て地主や大家に"追い出された"と言う不可抗力によるもの。その度に母親と物件を探し、利便性や家賃、環境等を総合的に見て新居を決めて来た(アタリマエだ)。決して、何かひとつの"ルール"に則って決めたワケではない。ついでに、引越は大キライ。

.....さ、あんまり長い前置きもナンだから、そろそろ本題に入ることにしよう。

オレは生まれてこのかた水の流れてる川なんざ地元で一度も見たことが無かったのに、なんとオレが住んだ場所は全〜部"川沿い"だったことが今頃解ったのさ!。おいおい、水は何処に行ったんだ?。ナニ、今でも流れてる!?。何処に?、元々流れてたトコ?。ってことは.....この真下!?。じゃ、この道はナニよ!.....蓋かよ!?。そして、internet検索を続けるオレはさらに衝撃的な項目を眼にする。
"東京・渋谷。地底5mにひそかに流れる闇の川がある"
.....なんだって?。
〜暗渠を知る〜
"臭いモノには蓋をしろ"
これは問題の根本的な解決を示す言葉ではない。臭わないよう、隠してしまえばとりあえず急場が凌げる、と言う意味でしかない。まず、この言葉を覚えておこう。

次に、オレが暮らして来た渋谷や代々木、杉並と言った所謂"山の手"と呼ばれる地域について。現在でこそ高級住宅街と言うイメージだが、戦後の日本が高度経済成長期を迎える直前までは完全な農村であり、現在で言う"ベッドタウン化する前の郊外"と言う位置づけであった。前述の国木田独歩の"武蔵野"はまさに渋谷区代々木あたりのことである。つまり、今で言う下町が江戸、山の手が武蔵野と呼ばれていたワケだ。.....ま、くだけて言えば今よりも遥かに"田舎"だったと言うこと。それが環状線(道路や電車/環6とか山手線とか)と言う発想を元に徐々に発展し、今日に至ったと考えて良い。
明治維新以降、関東大震災、第一次/第二次世界大戦など幾度もの障害を乗り越え、高度経済成長によって国際化を遂げようとする日本がようやく真の先進国となったのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催時である。既に一度1940年(昭和15年)にオリンピック誘致が決定しながら戦況を考慮して開催を断念している日本にとって、世界中のVIPを迎え、世界中に紹介される世界的イベントの開催はもう逃せないチャンスであった。東洋の島国・日本、そして首都・東京市。開催地には未だ緑の多い元武蔵野地域が選ばれ、霞ヶ丘競技場(国立競技場)、代々木競技場近辺を中心に、急速に整備を進めることとなった。東京開催が決定したのは1959年(昭和34年)、僅か5年間の猶予で東京市・武蔵野は急速に山の手へと生まれ変わる必要に迫られたのである。
1924年(大正13年)建造の明治神宮外苑競技場。1963年(昭和38年)に、東京オリンピック開催のため国立霞ヶ丘競技場へと生まれ変わる
渋谷の名の由来はいくつかあるが、"行き詰まる谷"と言う意味を持つと言う有力な説がある。そして、元は新宿御苑〜千駄ヶ谷付近あたりの谷を渋谷渓谷と呼び、四谷の由来となった4つの谷のひとつ、千駄ヶ谷渓谷の支谷だと言われている。更に、その"行き詰まる谷"は本来渓谷の呼び名では無く、その場所を流れる川、すなわち"渋谷川"が地名の由来とさえ言われている。渋谷川は新宿御苑内の玉藻池や玉川上水などを水源とし、明治神宮の南池(清正井戸)や宇田川などと合流後、天現寺で古川となり、東京湾へと向かう。
古川は知っているかも知れないが、渋谷川と言う名には殆どの人が違和感を感じるだろう。あまり川に興味のナイ人(オレみたいな人ね)は東京で川と言えば多摩川/神田川/隅田川、荒川、それにせいぜい江戸川、ってなあたりしか想像出来ないと思う。それも川そのものよりも、歌のタイトルだとか花火大会の名前だとか、そう言う理由が多い筈だ。大都会東京の、しかも若者の街・渋谷で川なんて、と思うのが普通。かく言うオレ自身、39年間渋谷区民をやっていたが、実際に川なんぞ見たことは無かったのである。

暗渠〜"あんきょ"と読む。
河川や水路のトンネル化、地中に埋設/掘削することを言う。
手短に言おう。戦後の急速な高度経済成長、住人の増加によって、東京の川は汚れてしまっていた。排水、汚水、ゴミ。のどかな農村を流れていた川は急速な発展の代償として悪臭を放つ東京の"問題児"へと変貌してしまっていた.....いや、人々の手によって変貌させられてしまっていたのだ。1961年(昭和36年)、国際化の名の元に東京はオリンピック開催地付近の川の暗渠化を決定する。残る猶予は3年、その間に出来ることは川にコンクリートの蓋をし、汚れた景観と悪臭を地下に隠すことだけであった。政府は決定を下した。

「臭いモノには蓋をしろ」

この有様を"ガイジン"には見せられない。ただそれだけの理由で、多くの川達が"生きたまま"蓋をされてしまったんだ!。

.....そして、オレは1964年(昭和39年)10月13日、東京オリンピック開催3日目に渋谷区神山町にて生まれた。8歳まで暮らした生家の前は当時遊歩道であった。正直、そこが宇田川と言う川だったことは知っていたが、暗渠の下で現在も川が存在する、と言う事実は恥ずかしながら今回初めて知った。通った幼稚園は渋谷川本流沿いであった。そして、最初の移転地である代々木5丁目の家は河骨川の川辺で、これも"昔近くを流れていたらしい"と言う話が記憶にあるだけだった。その次の本町(幡ヶ谷)は玉川上水路と神田川の支流に囲まれ、現在暮らしている明大前の家は新旧玉川上水路の分岐点である。ただし、水は見たことがない。

.....しかし、これらの川/水路は実はオレの人生に於いて奇妙な意味を持ち、オレの生まれ育った全ての場所と、現在仕事の中心地となっている場所は不思議にも見事なほどに全てが繋がっていたのである.....。
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