第三章・トーキョー・ウォーターワークス
第三章・第六節/幡ヶ谷地区の"謎"
宇田川の項目の際にも触れたが、今でこそ"山の手"や"新都心"などと称されるこのあたりはかつての武蔵野であった。言い方を変えると"江戸ではない"。つまり、武蔵野は決して東京の中心部ではなく郊外で、政治や産業の中心はあくまでも江戸であり、このあたりは農民達が暮らす地方の村だった、と言っても良いわけだ。そして、玉川上水路。当然これは江戸市民への供給を目的としたものであり、四谷大木戸、あるいは淀橋浄水場はあくまでも浄水を行う地点に過ぎず、そこから先の地域への供給を目的としたものだったのである。現在の東京の浄水場が東村山市にあるのを思い出せば解りやすいだろう。つまり、浄水場直前の農村地区である幡ヶ谷には、玉川上水や三田上水、あるいは神田上水などの"眼の前を通る上水道"は無縁のものだったのである。そして、これまで追って来た幡ヶ谷地区の玉川上水路及び神田川笹塚支流に、非常に興味深い"裏事実"が存在することが解った。
明治時代の本町(幡ヶ谷)の農家.....もしやオレん家あたりだったりして
時は明治。
江戸末期より大幅に人口が増加した東京市への上水道である玉川上水路付近には豊かな農業用地を利用した多くの水田が作られ、当然ながらこのあたりの人口も飛躍的に増えて行った。が、東京市中心部への米供給の重責を担っていた幡ヶ谷地区にも、中心部と同様の"取水制限"処置が取られていた。当然ながら、農村地区にとって水は命である。にも関わらず中心部と同じ量の水ではもちろん充分ではない。はて、どうやって水を調達するか。

代田橋(泉南)〜笹塚〜幡ヶ谷〜初台、と言うまさに玉川上水路と神田川笹塚支流沿いの地区には、数多くの小さな水路が存在した。言うまでもなく、豊富な水田を機能させるために必要だったのだが、ではその水源はどこだったのか。辿って行くと、いくつかの川筋の上流には玉川上水路があることが解る。
もうお馴染みの泉南交差点。写真右手奥の建物が清掃事務局、その更に右手に神田川笹塚支流の源流地点がある。そして、写真右手前の植え込みの先に、ひっそりと小さな暗渠が続く
玉川上水新水路から下って来る階段の右手にも川筋が続いている
やがて現れたのは本当に蓋をしてあるだけの小さな暗渠。前方に見えるのは甲州街道、暗渠は甲州街道を超えて行く
甲州街道(写真奥)を渡ると、一旦細い道となった直後に再び蓋式の暗渠が現れる
逆アングル。左手に無造作に放置されたコンクリート・バー。.....かなり大きなものだが、いったい何故放置されているのだろうか
暗渠は民家の裏を通過し、その先の月極駐車場敷地内の端へと続いて行く
正面に京王線の高架が見える。右手は駐車場スペース、舗装にかなりの段差があるのが解る
京王線の高架を超えた先に現れる、かなり古い石蓋暗渠。位置関係を考えると衝撃的な光景だ
すぐ脇を環状七号線が通る。.....いったいいつからこうだったのか、中学生時代にウロウロしていた筈だが全く気付かなかった。しかし.....ここは渋谷区とは思えない、あまりにも雑な処理跡だ
.....abbey road!(笑)
暗渠を辿って行くと、途中で不可思議な橋跡に遭遇
路面は橋の跡だとしても.....右側の石は.....?
そしてこの暗渠が辿り着いた先は玉川上水旧水路、大原橋であった。どうやら玉川上水からの水を分けた分水路跡、と言うことらしい
こちらは前述の暗渠よりやや東側、写真右手のマンションの位置にはかつて銭湯があった
元銭湯のマンションの脇にタクシー会社があり、この敷地内にも完全に忘れられた石蓋暗渠がある。特にここは近年処理がされている様子がなく、やや危険な状況とも言える
流路はそのまま京王線高架下を進む
やがて京王線笹塚駅に近づき、
グルッと回り込んで.....
南ドンドン橋へ.....つまり、これも玉川上水と繋がっていたワケだ
.....これらの水路は玉川上水路の水を分水した跡である。が、決して全てが合法なもの、とは限らない。何故なら、武蔵野の農村地区幡ヶ谷は取水制限により明らかに水が足らないと言う事態に陥っており、どうにかして眼の前を流れるこの豊かな水路から水を得ることが出来ないものか、と模索した結果、ある決断を行った記録が存在するのである。

笹塚の玉川上水路沿いに弁天神社を設け、夜な夜な祠の脇に人工の池を掘り、さらに地底にトンネルを作って無断で玉川上水路の水を池に流し、そこから逆川を使って農村地区に分水し、さも湧き水のように装っていた(幡ヶ谷郷土史)

.....ショッキングな事実だ。
京王線笹塚駅付近、疑惑の弁天神社跡地。現在何も残ってはいないが、写真左側の金網フェンスの下が玉川上水旧水路(開渠部分)、左手に二号橋跡がある位置
二号橋跡の手前の玉川上水路には、横に走るパイプと小さな側穴が存在する。.....これらが弁天神社の偽・湧き水池と関係あるのだろうか
現在弁天様は神田川笹塚支流の北側支流、氷川橋のあたりから50mほどの位置にある氷川神社に祀られているが、どうやら元々此処にあったものを偽装のためにわざわざ笹塚へ移した、と言うのが真相らしい。大正時代に入り、取水制限が緩和されると再び此処へ弁天様は戻ったと言う
....眼の前を流れる東京の大水道、玉川上水路。しかし、幡ヶ谷地区の農民達は井戸水生活を送りながらその豊富な水の流れる水路を前に指を加えて見ているしかなかった。都心部の食料源を支えているのは自分達である。が、その自分達はその豊かな水の恩恵を受けることが出来ず、しかも取水制限により水田のみならず生活用水にさえも不自由していた。苦肉の策として彼等が選んだのは"偽装"だったのだ。同じ土地に暮らした人間として、時代こそ違えど複雑な気持ちであることは否めない。

幡ヶ谷は1968年(昭和43年)に幡ヶ谷(1〜3丁目)と本町(1〜6丁目)に分かれた渋谷区の中でも広い地域だが、元々は現在の笹塚あたりまでを含めた代々幡村と言うさらに大きな一帯であった。幡ヶ谷の名は源義家が後三年の役(1083〜1087年)の帰途に源氏の軍旗を洗った池を"旗洗いの池"と称したことに由来する(この軍旗は現在も金王神社に保存されているらしい)。
幡ヶ谷1丁目にある旗洗いの池(洗旗池)跡の石碑。池には後年まで豊富な湧き水があったが、東京オリンピック前の1963年(昭和38年)に埋め立てられた(ハイハイ.....)
洗旗池の彫字は東郷平八郎氏によるもの
幡ヶ谷地区にはこの洗旗池を始め多くの湧き水池が存在したらしい。そしてそれらの多くは渓谷づたいに神田川笹塚支流へと注いでいた。そしてその内いくつかは前述の"疑惑の水路"と考えることが出来てしまうのだ。ただでさえ農業用水路が多かったこの地区、探せば水路跡の暗渠はいくらでも出て来る(住んでる時は気付きもしなかったが)。
玉川上水新水路、現・水道道路下を通る本町隧道トンネル(新玉川上水路で紹介したのとは逆アングルの南側)
その本町隧道のすぐ脇に続く暗渠。右手は現在空き地となっているが、御覧のように河川時代そのままの側壁が残っている
河川当時、岸辺(?)に降りるための階段だったと思われる跡。.....写真右手の番地表示のプレートが割れたままになっているあたり、神田川笹塚支流の北側支流に残された神橋を思い出す。.....つまり、渋谷区/特に幡ヶ谷地区には"放ったらかし"のものが多い、と言うことだ
暗渠の行き先は京王新線初台駅付近、丁度国立劇場/オペラ・シティ脇のあたりだった
大正末期に玉川上水新水路が出来ると、幡ヶ谷地区の農民達にとっては村を分断する形で水路が通るため、上水路そのものに対する不満が多くなる。現在残っている本村/本町の両隧道はその住民達の不満の声によって作られたトンネルの内ふたつである。当時は本村隧道を大トンネル、本町隧道を小トンネルと呼んでいた。この両隧道跡付近には特に多くの水路跡が暗渠となって残っている。
こちらは本村隧道(写真奥)、オレは右側の坂を上がった所に2004年(平成16年)まで住んでいた。写真左手の細い路地が暗渠である
ちなみに、たまに豆腐屋さんがやって来る長閑なところです
暗渠入り口部。完全に地元の人しか通らない裏路地である(ちなみにオレは今回初めて歩いた)
暗渠に入ってすぐ、右手にある本町六丁目遊び場.....数あるこの手の公園の中でも、1、2を争うほどの"怪しい"スペース。とりあえずここで子供が遊んでいるところは想像出来ない
暗渠が辿り着いたのはまさに水道道路/玉川上水新水路。写真奥から左手へさらにもう1本分水されている。.....ところで、上部の壁を見ると崩れた跡があり、新しいコンクリート・ブロックで補強されているのが解る。だがここは盛り土式の玉川上水新水路の土手と、コンクリートによる水道道路の構造がとても良く解る一角になっている
これが水道道路の"裏側"。構造としては橋のように支柱で立っているが、右奥はブロックで補強されている。
水道道路上から見た、壊れて補修された壁。.....どうも駐車場の壁に車がバックで突っ込んだ、ってところらしい。が、実際に裏側を見ると既に40年以上経過している基本構造がやや危険に感じられてしまう
そしていかにも玉川上水新水路から分水されたかのように下って行く暗渠
暗渠はやがて本町/不動通り商店街へと出て来る。不動通り商店街は初台から幡ヶ谷へ丁度水道道路と平行して続く、一駅分ほどもある長い、とても便利な商店街である。ここは丁度幡ヶ谷寄りの終点のあたり
不動通り商店街。一本道の、昔ながらの商店街だ
流路は不動通り商店街を渡り、再び住宅街の中へ向かう
.....玉川上水新水路から分水された流路は氷川橋付近で神田川笹塚支流/南側支流へと流れ込んで(オレの後方)いた。起伏の多い地形的に見ると自然河川ではないように思える
本村隧道の脇から北側の神田川笹塚支流へと流れていたこの水路には、実は南側の水路も存在する。これが前述の水路と完全に繋がっていたかどうかは定かではないが、もしかすると玉川上水旧水路時代に同様に引いて来たものなのかも知れない。もうこうなると全てが怪しく思えてしまうが、いくつかは通常の農業用水だ.....と信じたい。
本村隧道はかつて小トンネル、本町隧道が大トンネルと呼ばれていた。良く見ると、小トンネルの右側(写真右端)にも入り口らしきスペースが見える
実はこれは本村隧道の塞がれたトンネル跡である。戦後しばらくまではこちらが使用されていた、言わばオリジナルの本村隧道と言うことになる
1947年(昭和22年)当時の本村/本町の両隧道トンネル付近。確かに本町隧道(左側)は玉川上水新水路(水道道路)を渡る直前に左にカーブしており、現在塞がれている側から南(写真下方面)へと繋がっている。そして、写真を良く見るとかなりの数の小さな流路が確認出来る
古い暗渠は本村隧道のやや東側の住宅地の真ん中を通っている
暗渠の先は甲州街道へと続き、その先には玉川上水旧水路が流れる
これらの暗渠には当然ながら橋跡も何も残されていない。むしろ、記録/記憶に残ることを嫌う理由は存在し、そこに水路があったことをむしろ否定しているようにさえ感じられてしまうのである。
こちらは神田川笹塚支流の南側支流、中幡小学校脇から水道公園沿いの遊歩道へ向かう暗渠。丁度ここを横切る道も実は水路跡である
暗渠右手の路地入り口の路面に橋の跡が覗いている
暗渠はやや上り坂となっている住宅街を縫うようにS字を描きながら進む
.....予想通り、暗渠は玉川上水新水路に突き当たった。と言うより、ここから神田川笹塚支流の南側支流に向けて流れていたもの
水道道路を超えて銭湯の脇(写真左手)を通る
谷底地形の真ん中の住宅地を真っすぐ進む
やがて甲州街道(写真奥)、京王新線幡ヶ谷駅脇へと出て来る。もちろんこちらも甲州街道を超えれば玉川上水旧水路である
.....都心部の食料事情を支える農村でありながら、眼の前を通る大水道の恩恵を受けられず井戸水暮らしを強いられていた幡ヶ谷地区の住民達。さらに村は水路によって分断され、不自由な暮らしの中で彼等が考えたこと。.....そしてそれらの遺構は現在こうして暗渠となり、そして後年そこに暮らした当時を知る由もないオレの知るところとなる。.....この調査によってオレが自分の暮らした街への愛情が薄れるようなことはない。だが、事態がどれだけ切実だったのかは、"不自由"と言う状況を身を以て感じたことのない自分にとってはやや"遠い過去の話"として捉えざるを得ないもの、と言うのが正直なところである。

>>「第三章・第七節/神田上水助水路と角筈・十二社・淀橋」へ


copyright (C) 2005-2013 www.kasetatsuya.com