第五章・桃園川complete
第五章・第二節/六ケ村分水と天沼弁天池
前述のように現在桃園川はその全てが暗渠化されている。そしてその主な流路跡は杉並区と中野区によって"桃園川緑道"として整備されており、杉並区内はメモリアル的な公園化/中野区内は散歩道、と言った造りになっている。1923年(大正12年)に大きく流路変更された後、1961年(昭和36年)に暗渠化、1967年(昭和42年)に"桃園川幹線"と言う下水道幹線へと生まれ変わった。よって現在の桃園川緑道は下水道でこそあるものの実際に地下に桃園川が流れている上の暗渠、と言うことになる。整備された桃園川緑道そのものはJR阿佐ヶ谷駅(中央/総武線)付近から始まり神田川合流点の末広橋までだが、まず本来の水源である天沼弁天池を目指し、千川上水"六ケ村分水"へと向かう。
千川上水は1696年(元禄9年)、玉川上水からの分水として境橋(武蔵境付近)から巣鴨までの約30kmを流れる上水路である。当然現在は使用されておらず暗渠となっているわけだが、1985年(昭和60年)に東京都の"清流復活事業"によって一部が開渠となり、当時の姿を偲ぶことが出来るようになっている。そして、今回第一に因果を感じたのがこの千川上水の開/暗渠の境となるポイントがいつも使っているスタジオにほど近く、前々からバス停の"水道端(すいどうばた)"と言う名称が気になっていたポイントだったのである。しかもまさに此処こそが千川上水と桃園川、言わば現在のオレの行動範囲を繋ぐ水路の存在だったワケで.....ま、千川上水についてはいずれ(いずれ.....ね)大きく取り上げたいと思っているが、今回はあくまでも桃園川の水源としての紹介に留める。
1963年(昭和38年)、暗渠化される以前の千川上水の姿。1970年(昭和45年)に全てが暗渠化されている
こちらは2007年(平成19年)現在。1989年(平成元年)の"清流復活事業"によって再び潤った水路。付近にはまだまだ田畑も多く、水路そのものが石垣で固められてはいるものの当時の姿を偲ばせる
千川上水六ケ村分水は、練馬区関町から上井草/下井草/下荻窪(荻窪)/天沼/天領(鷺宮)/阿佐ヶ谷の六つの村から成る"南六ケ村組合"への供給のために分水された水路で、元を辿れば玉川上水からの分水をさらに千川上水で分水した孫の代にあたる水路と言える。何故そうなったのかと言えば単純に六ケ村に"水が足りなかった"からであり、特に桃園川流域は天沼の水源が小さかったために農業用水としては乏しく、実際は天沼と阿佐ヶ谷への分水だけでは足らずに高円寺より下流側では他の分水に頼らざるを得なかったほどである。ちなみに六ケ村分水はこの分水そのものを幕府に提案した下井草村名主の井口半兵衛と阿佐ヶ谷村名主の相澤喜兵衛の名を取り、別名"半兵衛相澤堀"とも呼ばれていた。
左が1940年(昭和15年)、右が2007年(平成19年)の千川上水・六ケ村分水跡。左の写真手前から左へとカーブして行くのが千川上水の本来の流路、真っすぐ奥へと延びて行くのが六ケ村分水の水路である。残念なことに現在この付近から天沼までには六ケ村分水の痕跡は全くと言っていいほど存在しないが、この写真から青梅街道(写真中央の大通り)の南側を進んで行くことが解る
上から見た分水地点。写真奥から来た千川上水は左手へカーブし、青梅街道を渡って下流へと向かう。六ケ村分水は写真下方向、青梅街道の南側を進む
青梅街道上の大きな橋は伊勢橋。当然かつてはこんなに大きな橋ではなかったわけだが、いずれにしても青梅街道を渡る橋、と言う点では重要な橋だっただろう
渡った先は"練馬区立千川上水緑道"と言う名の遊歩道。"清流復活"はここまで、現在はここから板橋の石神井川合流地点までは全て暗渠である
青梅街道・関町1丁目交差点の"水道端"バス停。ウチの裏にゃ"水道横丁"(明大前/玉川上水沿い)ってのがあるケド、いい勝負のネーミングだ
青梅街道・関町一丁目交差点、左が1956年(昭和31年)、右は現在、同一箇所からのショット。左の写真ではかろうじて右端に側溝のような水路が確認出来るが、現在その痕跡は全く見られない。.....それにしても、青梅街道の変貌ぶりには驚くばかり
千川上水六ケ村分水はここからしばらく青梅街道に沿って南側を流れて行く。が、青梅街道と言う都会の大きな街道沿いであるため、度重なる道路拡張などで六ケ村分水の痕跡は殆ど残っておらず、現在その流路を辿るのは非常に至難のワザである。どうにか古地図や終戦直後の航空写真などを頼りに、「この真下にあった筈」と言う憶測を含めて辿って行くしかない。
現在流路はしばらく青梅街道から南へ入った住宅街に飲み込まれている。が、所々に暗渠道に良く見られる車止めが存在し、かつての地図と地形から"このあたり"と想像することは出来る
上井草四丁目交差点、ここで一旦流路は現在の青梅街道に接近し、付近の善福寺川や井草川などへと分水していた
井草八幡宮は旧・上/下井草村の鎮守である。さらにここは縄文時代の住居跡や土器などが出土しており、これは付近には古代から人々が住み着いていた証である。間近に善福寺川と言う豊富な水源を持ち、人が生活して行くに必要な条件が揃っていたと考えられる
付近には農家の廃屋が今でも残る
この金太郎の描かれた車止めは実は杉並区内の古い暗渠道の証。ここは"保久屋口-ぼくやぐち-"と言う、井草川の分水跡である
中島飛行機と言うのはオレの尊敬する故・中村良夫氏(第1期・ホンダF1チーム監督)がホンダ入社以前におられた会社である。その後富士精密工業〜プリンス自動車工業〜日産荻窪工場となり、現在は日産プリンスの営業所。工場はルノーによる日産買収時に売却され、"桃井原っぱ広場"として再開発を待つ状態。ちなみに"桃井"と言う地区名は桃園の桃と、元々上井草村だった井草の井を取って桃井とした"桃井小学校(現・桃井第一小学校)"に由来する
かつては中島飛行機があった広大な日産の工場跡地にはマンションが建ち、一部は現在"桃井原っぱ広場"として一般開放されているが、いずれ防災公園が建設される予定
青梅街道南側/荻窪警察署前にある荻窪八幡神社
神社内には1477年(文明9年)に太田道灌が石神井城攻めの必勝祈願をした際に植えたと言われる槙の木"道潅槙"が聳え立つ。推定樹齢530歳だ
青梅街道と環状八号線が交差する箇所の名は"四面道(しめんどう)"。.....名前からして四つの道に面しているから、と推測出来そうだが、実はこれは"四面塔"(しめんと)が訛ったもの。つまり四つの面を持った塔がこの場所に存在していたことから付近の方が"しめんと"と呼び、それがいつしか四面道となったそう。肝心の四面塔そのものは現在前述の荻窪八幡神社内に保管されている
これが荻窪八幡神社内に保存されている四面塔。元々この塔があったのは秋葉神社と言う神社で、これは天沼/下井草/上荻窪/下荻窪の四つの村を照らす常夜燈だった。秋葉神社は1969年(昭和44年)に環八の拡張/立体交差化工事のために荻窪八幡神社へと移動した
1974年(昭和49年)の四面道交差点全景。拡張工事により現在とほぼ同じ道幅だが、まだ立体交差化はされていない
こちらは現在、オレも頑張って上から撮ってみた(.....)。横に走るのが環八、縦が青梅街道。当然六ケ村分水の水路跡など辿るべくもないが、写真右上方向から間もなくその痕跡が現れる
練馬区関町から青梅街道沿いに進んで来た千川上水六ケ村分水は、四面道交差点の先、現在のJR荻窪駅手前で青梅街道から天沼方面(北)へと分水される。.....向かうは桃園川"本来の"水源、天沼弁天池である。
青梅街道北側、JR荻窪駅を目前にした天沼三丁目付近に現れる水路暗渠。これが千川上水六ケ村分水から桃園川の水源地、天沼弁天池へと向かう流路である
ようやく姿を現した六ケ村分水、通称半兵衛相澤堀跡。暗渠は紅いタイル張りの舗装道路
天沼もえぎ公園。この公園の前を横切るように流れるのが分水跡
.....そして辿り着いたのは天沼弁天公園。この一風変わった入り口を持つ真新しい公園こそが、本来の桃園川の水源となった弁天池跡地なのである
天沼弁天公園は実は2007年(平成19年)4月、つまりつい先日開園したばかりの公園である。かつてこの地に天沼弁天社があり、約三百坪の広さの湧き水池があった。その池は"弁天沼"や"天沼"などと呼ばれ、それが後の天沼と言う地名になったと言う説が有力である。当時付近には"天沼池畔亭"と言う料亭が建ち、天沼弁天社には付近の人々のみならず遠方からも来客がやって来る、言わば"リゾート地"であった(丁度"十二社池"のような所だったのだろう)。
が、1975年(昭和50年)にこの天沼弁天社の土地そのものが売却されると言う事態となる。.....それからの経緯に関しては-本当はゴシップっぽい話になるのでやや気は引けるのだが-少々不可解な経緯を辿り、天沼弁天池跡地は現在の公園へと姿を変えて行くことになる。
天沼弁天公園入り口。.....不思議な門の存在には理由がある
.....実は天沼八幡神社が1975年(昭和50年)に天沼弁天社の土地を売却した相手は某巨大鉄道会社であった。その後天沼弁天社の跡地には"ゴルフ研修所"が建設されるが、実際には当時の会長職にあった有名な方と"関係の深い女性"の邸宅が建てられた。当時この会社は1973年(昭和48年)の某有名テナントビルopen、1979年(昭和54年)のプロ野球チーム買収などに代表されるように、日本の好景気に大きく貢献していた会社である。当然のように各方面に多額の投資が行われ、所謂バブル景気を象徴する企業となった。そしてこの"通称"ゴルフ研修所は何故か鬱蒼と茂った木々と高い壁に囲まれ、まるで付近一帯から隔離されたかのような場所であった。そしてそれは誰の目にも"隠すべきもの"の存在を匂わせ、マスコミにさえ"暗黙の了解"が罷り通っていたのである。
名目上"ゴルフ研修所"だった時代の様子。周囲は高い木々に遮られ、その中を垣間見ることは出来なかった
.....このある意味、巨額蠢くバブル日本らしい事情により、由緒ある天沼弁天池は埋め立てられてしまった。そして30年後、総会屋との癒着/証券取引法違反などの責任を取り、当の会長が逮捕される。会社そのものも経営が揺らぎ、最終的にこの"研修所"は取り壊され、会社再建のために国/東京都/杉並区に20億円で売却されることなった。そして2007年(平成19年)、何故か正面玄関をそのまま残した形で天沼弁天公園が完成。そしてそこには、埋め立てられた天沼弁天池とは何の縁も所縁もない、邸宅に似合う人工池があった。改めて言うが、天沼弁天池を埋め立ててまで作ったこの人工池は桃園川とは何の関係もない。
開園したばかりの天沼弁天公園。見覚えのある門がそのまま残されているが、施錠されていて開けることは出来ない
園内から見た正面の門。.....見ての通り、公園にこの門の存在そのものが不可解である
約1200坪の公園内には広場、人工池、災害時用備蓄倉庫、そして杉並区郷土博物館分館(本館は大宮1丁目)などがある
これが問題の人工池。かつて同じ位置に、桃園川本流の最初の一滴となる湧き水を持つ弁天池が存在した。が、同じ場所にあるこの池はただの人工池、それも弁天池を埋め立ててまで作り直した"景観優先"の池である。.....この池の畔にあった「この水は飲めません」の立て札の存在が虚しい
当の会長の逮捕劇を伝える新聞記事。日本経済への影響も大きかった事件である
公園の外枠にポツンと建つ祠。これはゴルフ研修所時代からここに建っていた
現在弁財天が保存されている天沼弁天神社は、公園敷地のすぐ眼の前にある
.....そこにある池は、前述のように由緒ある弁天池を埋め立て、個人的な観覧用に作られた人工池でしかない。かつて桃園の人々が心から欲した水を湧き出し、江戸/武蔵野の人の為に米を作る命の水ともなった源は、戦後の復興〜高度経済成長の影であるひとりの富豪の欲を隠すための"隠れ蓑"の為に犠牲になったのである。そして公園化された現在、無意味に残る邸宅の門.....もしこれが意図的なものなのであれば、この上なくシュールな建築法だ。
天沼弁天公園の南側/例の門のやや左手から、小さな暗渠道が住宅の間を縫うようにひっそりと始まる。.....かつて"天の恵みの沼"と呼ばれた弁天池から始まる、桃園川の名残りである
天沼弁天公園(写真正面)から真っすぐに延びた細い石畳暗渠。これが弁天池を水源とした桃園川の最初の流れの跡である
路地を横切る度に渡る小さな橋跡が現在も残る
やがて桃園川は下流の神田川/末広橋目指し、阿佐ヶ谷方面へと向かう
流路の左右にはいくつもの分水跡が残る。水不足に喘いだ六ケ村の叫びが聞こえて来そうな暗渠の連続である
途中、グリーンベルト状になる一帯は周りの住宅そのものが比較的新しく、暗渠の両岸には車が通れる程度に広い道が作られていた
天沼〜阿佐ヶ谷間には桃園川の暗渠道である証しや表示がなく、ここも橋跡だが名称などは不明
1967年(昭和42年)の暗渠化当時からある壁なのだろうか、暗渠舗装よりも周囲の壁が低い所にある
やがて桃園川は青梅街道/南阿佐ヶ谷と中村橋を南北に結ぶ中杉通りを横断する
左手が中村橋方面、早稲田通り〜新青梅街道〜千川通りを経て目白通りまで結ばれている。右手は青梅街道、2枚の写真からここが緩やかな谷底であることが解る
中杉通りを渡った桃園川は一旦一般道の中に飲み込まれてしまう
JR阿佐ヶ谷駅に近い"阿佐ヶ谷けやき公園"。正面にJRの高架が見えて来る
.....やがて現れたのは白いアーチの架かった遊歩道への入り口。ここが、この先緑道として整備された"桃園川緑道"のスタート地点となる
現存する"桃園川緑道"はここから神田川との合流地点となる東中野への約4kmほどの散歩道となり、多くの人が桃園川はここから、と思っているようだが、実際には更に上流の天沼弁天池、千川上水六ケ村分水、他にも多くの水源/支流を集めた農業用水路として機能していたので、ここはあくまでも"整備された緑道のスタート地点"と考えるべきである。手前の阿佐ヶ谷けやき公園も、かつては湧き水のある桃園川の水源のひとつだった。
1920年(大正9年)当時の桃園川の姿。年代的には丁度"春の小川"(河骨川/大正元年)の時代である。長閑な田園地帯の底を優しく流れる、小さな小さな川だったのだ
また1923年(大正12年)に起きた関東大震災の後、桃園川に大きな流路変更工事が施され、阿佐ヶ谷から中野へ向けてほぼ真っすぐにその流路が変更された。特に環状七号線を渡ったあたりからは丁度大久保通りと平行する形で新宿方面へと向かって行く。
そして、ここまで完全に街中に飲み込まれた形でひっそりと残るだけの暗渠だった桃園川は、この先杉並〜中野区内を対照的な、そして奇妙な形でその存在を我々に知らしめてくれる。
>>「第五章・第三節/"緑道"悲喜交々」へ


copyright (C) 2005-2013 www.kasetatsuya.com