第七章・"渋谷・朝霧ヶ瀧伝説"
第七章・第四節/鴬谷と三田用水
Google Earth 地形図に見る渋谷区桜ヶ丘/鶯谷付近。薄い茶色が高地、濃い緑色が低地、右手の黒いラインは渋谷川開渠部である
東京で鴬谷と言ったら台東区、上野のお隣の駅。それと同じ名の町が渋谷にあるなんてのは意外に知られてない。鶯の鳴く谷。「ホー、ホケキョ!」.....そんなの、少なくともオレの経験値では地方の旅館の朝、でしかなく、少なくとも渋谷の山手線の線路沿いで想像出来るようなモンじゃない。
で、渋谷の鴬谷。渋谷区民以外の方は殆どご存知ないだろう。何故なら、そこに観光名所も流行りのお店もないから。どちらかというと住宅街であり、渋谷と恵比寿、または渋谷と代官山の丁度真ん中へんにあるせいであんまり外から人は訪れない。しかも範囲が狭く、例え来てても素通りするところ。ところが、今回オレが探し求める困頁山と滝に関しては、もしかしたら非常に重要な場所かも知れないんだ。
正面の道から奥は桜丘、その高台を見上げる谷地が鴬谷だ
渋谷区鶯谷.....区外の人が殆どその存在を知らない地名
このあたりの住宅はまだ昭和の特徴を色濃く残している
桜丘から見下ろす谷、つまり丁度山と谷になってる位置関係にあるのが鴬谷。町名の由来は"鶯橋"。.....これまた何て美しい名の橋。が、やはり谷地の鴬谷には水の流れがあって、そこは鶯の鳴く美しい所だった、ということ。それはいったいどんな流れだったんだろう。
桜丘から谷底低地の鴬谷へ降りると、その山頂方向の住居表示は"猿楽"になる。通常であれば桜丘"何丁目"、となる範囲内だが、渋谷区東部は単独町の密集地なのでひとつひとつの町がどうしても狭くなる
猿楽町。"猿楽"の名は今も残る"猿楽塚"が命名の元。但しその由来は諸説ある。太田道灌の物見塚説、新田義貞が倒した兵を葬った塚説、更に源頼朝が猿楽を催した説.....更に、渋谷金王丸が景色の風光明媚を「我が苦の去る如し」と詠ったので"去るが苦"→"猿楽"、など。ただ、奈良時代の猿楽(軽業芸)の遺構が残っていたため、猿楽塚説が有力のようである
江戸名所図会"猿楽塚"。こうして見るとそれなりに"山"であり、谷底で鶯の声も聴こえそう.....ではある
左は1909年(明治42年)頃の鴬谷"長谷戸"の風景、右は100年後の現在。なるほど、100年遡れば、鶯の鳴く谷がようやく想像出来る。こうして鴬谷から猿楽方面へ登って行くと、あたり一面の敷地が巨大な工事区画であることがわかる
現在この付近は通称"鴬谷町計画"と呼ばれる巨大な高層マンション建築地となっている。が、環境保全を訴える付近住民と某大手不動産会社との間には深く大きな溝が存在し、ここでは多くは書かないが今も論争中である
元々この地には外国人向けマンションが建っていたが、'07年の取り壊しの際に縄文〜弥生時代の集落跡の遺跡が発掘された。渋谷でも最大と言われるこの遺跡発掘は武蔵野の古代人の生活と衰退の歴史に関して大きな意味合いを持ち、保存が検討されたが最終的に土地所有者である不動産会社による「発掘調査終了次第マンション建設開始」との決断により、既に遺跡はほぼ消滅してしまっている。
いつだって悲しむのは先住者である。そしてそれは時間の流れと共に次の世代へと代わり、本来誰のものでもない"土地"を巡って繰り返されて行く。もちろんここに古代人が住み着いた時にだって、それを迷惑に思った動物達も樹木達もいた筈なのだ。それが何万年かの間にただ繰り返され、今日もまた現代人がそれを真似ているだけ。
.....皮肉にも、解体されたマンションの名は"エバーグリーンホームズ"だった。
約1万年ぶりに姿を現した縄文時代の渋谷
発掘調査中の鴬谷遺跡。左手に聳えるのは代官山アドレス。不動産屋の金勘定が目に浮かぶような広大な敷地である
調査進行中の敷地内に残る保存樹林。彼らの命運は.....
猿楽の町を登り切ると、眼下に再び谷底が見えて来る
住居表示は"鉢山町"へと変わっていた
鉢山町。すり鉢状の山、と考えるのが自然。すり鉢をひっくり返したところを想像すると、てっぺんは平で側面はなだらか。おお、もしかしたらコイツは困頁山と何か関係あるかも知れない。
江戸砂子によると

法道仙人の投げた鉢が戻って来て出来た山

とある。つまりまたしてもその由来は江戸時代以前に遡る、ということ。ただし、それがナチュラルな山だったのか、それとも古墳のような人工的なものだったのか、は定かではない。ただでさえさほどの高低差のない渋谷で、"昔は山だった所"を探そうってのが土台無茶なハナシ。だが少なくとも、宅地化された現在の高低差の中では町名だけが頼りなのである。
左は1938年(昭和13年)、右は2009年(平成21年)、かつて"亀山坂"と呼ばれた坂の風景。意外なことに、現在の方が緑豊かである
.....そしてもう1枚、渋谷区郷土博物館・文学館による"昭和初期の西郷山を流れる小川"と題されたこの写真。解説には"現在の鉢山町交番付近"と記されている。鉢山町交番とは、まさにこの位置にある交番のことである
鴬谷〜鉢山と辿り、ここで遂に小川の存在が明らかになった。が、後述するが現在"西郷山"とされるのはもう少し目黒寄りであり、この付近一帯が西郷山だったということは鉢山/猿楽地域もその西郷山に含まれる、ということになる。ということは、この小川こそが何か朝霧ヶ滝伝説に関係するヒントをくれるかも知れない。
住宅街の真ん中を貫く何の変哲もない路地
突然落差が激しくなり、マンション0.5階分ほど低い場所へと階段が設けられている
右手は土手を連想させるような段差を持つ壁
更に進むと、やがてそこは苔むした護岸であり、配水管の構造が水路跡であることを教えてくれる
やがて水路跡である決定打となる車止めが進路を遮る
流路は右手から左手へ。右岸の上方には迫り来る鴬谷町計画のクレーンが見える
やがて再び階段が
鴬谷一号階段.....この道の正体は三田用水・鉢山口水路である
三田用水・鉢山口水路。それは笹塚で玉川上水から取水した三田方面へ向けた分水路であり、三田用水そのものは元々1664年(寛文4年)に通水が始まった三田上水、つまり飲料用である。それが1722年(享保7年)に上水としての機能を停止、その2年後の1724年(享保9年)から"三田用水"となった。流路は渋谷の西側から南へと向い、現在の山手通り/旧山手通り沿いを白金/三田方面に流れ、宇田川/渋谷川流域からは地形的に取水不可能な一帯を潤した。鉢山分水は文字通り鉢山で分水され、鴬谷へと落ちて行き、そして渋谷川へと注ぐ小さな小さな分水だった。
だとすれば、この三田用水・鉢山口水路が"西郷山付近を流れる小川"となり、それはもちろん江戸時代以降の人工河川、という結論に行き着く。
宅地化された現在、かつての地形を連想することは可能だろうか
偶然あった空き地から見た鉢山分水、写真右手が上流
住宅地を蛇行しながら進み、再び階段
鶯谷二号階段.....ここはかつての"鶯谷橋"跡である
.....問題は、「何処に水路があるの?」と子供に聞かれ、果たして親が答えられるのか.....
流路は鴬台町計画によって遮られ、その痕跡は消えた
1947年(昭和22年)のGHQによる航空写真に見る三田用水・鉢山口水路の暗渠化直前の姿。戦後間もないこの時期で、既に断片的にしかその姿を確認することは出来なくなっている
鉢山分水の流路は元々今回オレが鴬谷から登って来た道の下を通っており、渋谷区立鉢山中学校の敷地をかすめる。鴬谷9番地に鉢山中学校があるあたりが小さな単独町の隣接加減を物語る
鴬谷児童遊園地.....奥の鉢山中学との高低差が良く解る。手前側/対面の高台は生誕の地・桜丘、鴬谷は本当に小さな谷底の一角なのである
歩いていてあらためて思うのは、現代人は上手く平坦な暮らしを作ったんだな、ということ。低い場所は盛り上げ、突出した部分はなくす。そうすることで住みやすく、且つ高台の"優越感"も含めて山手の高級住宅街を演出する。そしてそれは、ざっと"昭和いっぱい"をかけて行われて来た。関東大震災と戦争。戦後全てを失った人々は悲壮な決意で復興を行い、瓦礫の山と残された自然を泣きながら片付け、そして新たな時代を作り始めた。結果、オレ達は今便利な生活の中で呑気に暮らしていられる。
渋谷川・並木橋。今は清流復活事業による高度下水処理水が落ちるこの場所に、三田用水・鉢山分水は落ちていた
1985年(昭和60年)当時の、現在の護岸になる前の鉢山分水口の姿
1963年(昭和38年)の米軍航空写真に書き込んだ三田用水・鉢山口水路の流路図。高台の旧山手通り/三田用水から鴬谷へ向けて落ち、最後は並木橋で渋谷川に合流する。昭和初期の暗渠化により既にほとんどが宅地化されているが、かつてはこの間多くの水田があり、渋谷の農民達を支えた流路だった
左は1953年(昭和28年)の、渋谷区笹塚・玉川上水/三田用水分水点。手前の上流から右方向へ分岐する水門が三田用水のスタート地点である。現在も分岐点の遺構は健在。ここから神山町付近で山手通りと合流する
この三田用水の本流・流路は実はつい最近.....というには古過ぎるかも知れないが、1975年(昭和50年)まで流路が一部存在していた。三田用水そのものに関しては近頃あちこちで取り上げられる機会も多いが、オレにしてみれば今自宅の眼の前から職場の眼の前へと繋がる玉川上水の、大切な弟分。それも分水地点は3年間通った中学のすぐ側の笹塚。その弟分がこれまたオレのテリトリーである山手通りを通り、オレの生まれた場所へと水を流していたらしい。.....ならば一旦山手通りを目指さなくては。何しろ玉川上水が1654年(承応3年)、三田上水への分水は1664年(寛文4年)。1722年(享保7年)には上水機能を停止、以後用水路として活用....."江戸時代"が1603年(慶長8年)以降である以上、この鴬谷界隈で見つけられる水路事情には.....残念ながら直接朝霧と撫子姫の歴史に直結するものはなさそうだ.....。
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