第七章・"渋谷・朝霧ヶ瀧伝説"
第七章・第七節/道玄坂と円山町
駒場野を流れた空川は滝坂道を渡っていた。滝坂道は前述のように甲州街道以前の主要街道であり、江戸から武蔵国府のある府中方面へ抜けるための街道として作られた。大山道(矢倉沢往還)から別れる滝坂道のスタート地点は、残る最後の高台、道玄坂である。
左は今から50年前/昭和中期の道玄坂、右は現在。歩道にアーケードがある、典型的な商店街造りである。左手にある"緑"は緑屋というデパートで、現在のTHE PRIME。オレが小学生くらいの時はこの中にミドリボウルというボーリング場があって良く入り浸ってた
こちらは1914年(大正3年)の道玄坂。森も見えるが多くの民家が建ち並ぶ
谷底の渋谷駅を囲む坂、宮益坂、公園通り、246(青山/三軒茶屋)、そしてもうひとつが道玄坂。東急vs西武でファッション・ストリートとなった現在もはやメッカとは言えないかも知れないが、戦後から昭和中期にかけては渋谷の繁華街、と言えば道玄坂/円山町方面のことだった。
道玄坂とは1213年(健暦3年)に平安〜鎌倉時代の武将・和田義盛一族が北条氏に滅ぼされ、一部が渋谷へと移住。その後渋谷氏が滅ぼされた後、一族のひとりである大和田太郎道玄が強盗となって潜み、旅人の物色のために登った松の木を"道玄松"、その松のある坂を"道玄松の坂"と呼んだことが由来と言われている。
スクランブル交差点から見た道玄坂。右手に109
道玄坂の謂れの記された碑。考えようによっては"盗賊の村"の証しとなってしまっているのが皮肉である
ガキの頃のオレにとって、道玄坂と言えば映画館。今も映画館が密集するここには東宝があって、ゴジラ観て育った世代
こちらは40年以上の歴史を誇るヤマハ。1Fにはちょっとしたミニ・ライヴが出来るスペースがあって、運が良いと大物が間近で観れたりした
左は昭和初期の道玄坂、右は2009年(平成21年)。写真左手の建物は約80年の時を経て健在
1階を店舗、上階を住居とする典型的なスタイル。焼け野原となった渋谷で生き残っただけでなく、21世紀の現在まで都市化の波に呑まれずに残っていることは奇蹟に近い
建物の裏側はパイプで補強されている。これが保存に向けてなのか、当面の危険を避けるためだけなのかは不明
道玄坂界隈にはオレの小学校の同級生、つまりオリンピック・ベイビーズが大勢いた。一番上の写真なんかは創業120年以上の老舗呉服店、四代目となる現社長はオレの同級生の弟さん。昔は道玄坂の上から渋谷駅が見えたんだそうな
こちらは1926年(昭和元年)創業、名曲喫茶ライオン。空襲で全焼したものの再建、渋谷の名物となり、84歳を迎える今も営業中。渋谷の宝だ
住宅の間にひっそりと佇む千代田稲荷。ほんの数m先が渋谷の繁華街とは思えない
この路地裏の"普通の"マンションに見えるビルは"テアトル"というボーリング場だった。ここでもまた"タチの悪いアマ・ボウラー"のオレのオヤジがブイブイ言わせてた(.....)。それにしても宇田川町/NHK前のショーエイと言い、緑屋のミドリボウルと言い、いかに昭和中期がボーリング・ブームだったか解るでしょ
渋谷区立大向小学校(現・神南小学校)の学区内である道玄坂には在学当時のオレのテリトリーである。当然裏道も良〜く知ってる。良くオレと渋谷を歩く人に「.....今どうやってここまで来たの?」と驚かれるが、そりゃ生活範囲内としての渋谷はお手のもの、例えば渋谷駅からライヴハウス"O-East"へ向うのにほぼ人混みを避けて来る方法なんてフツーの人にはムリ。が、それを実現してくれるのが道玄坂とその裏道達。
ところが、そのオレにとっての便利な裏道が、歴史的に重要な道筋だったということは、例によって最近まで全く知らなかったのである。
O-EAST/O-EAST/Club-Asia.....道玄坂/円山町に密集するライヴハウス群。殆どが平成に入ってからの創業だが、その裏手にある1979年(昭和54年)創業の小さな店"七面鳥"は2009年(平成21年)9月にライヴ・バーとしてリニューアル・オープンした老舗の店。同年12月、ソロ・ライヴを演らせて頂いた。もちろん渋谷の話をタップリ交えてね
左は1921年(大正10年)、右は現在の"道玄坂上交番"付近。道玄坂の頂上を斜めに横切るこの"便利な裏道"が、今回の鍵を握る由緒ある道筋だった
何の変哲もない一方通行路
さすが裏道、周囲は店舗こそあれど静か
やがて正面に大きな通りが見えて来る
旧山手通り
そしてその先は山手通り/淡島通り交差点、松見坂であった
.....道玄坂上交番からの小さな"裏道"の正体は滝坂道である。
滝坂道は渋谷/道玄坂を起点に調布市滝坂までの"軍用道路"であり、前節で記したように甲州街道以前、つまり江戸時代以前の主要道路のひとつである。それが現在の淡島通りであり、駒場野の空川の遠江橋が架かる松見坂は、この道玄坂由来の大和田道玄の"物見の松"だったのである。そして、手前の旧山手通りは南平台/鉢山/猿楽/代官山へと繋がり、西郷山がその台地を切り分けていた。
そして、この滝坂道の起点となる道玄坂、実は大和田道玄太郎の盗賊の時代に比べ、現在は低くなっているらしい。明治時代に池尻の砲兵隊が道玄坂で横転事故を起こし、多くの犠牲を出した。これにより陸軍は道玄坂を約5m削り、現在の高さになったのだという。
更に、道玄坂/円山町に隣接する神泉は、荒木山を崩して出来た色町である。つまり、渋谷南部で最も高かったのは道玄坂界隈であり、現在旧山手通り沿いに見られる鉢山や代官山、特に縄文時代の住居跡が出土した猿楽付近の地形は、これで古代から今以上高くはなかったことが証明されている。
.....点と点が繋がって来た。"江戸時代以前"という曖昧な時代に"困頁山"と称される山が円山町付近にあったとすればやはりこのあたりしかありえない。
江戸名所図会・富士見坂一本松。手前の大きな木が道玄物見の松と言われている
1947年(昭和22年)GHQによる航空写真に見る道玄坂上付近。写真左下が池尻方面。まだ国道246号線がなく、道玄坂そのものが渋谷のメインストリートであったことが解る。滝坂道は道玄坂途中から始まり、長府の滝坂へ向けて西に進む街道である
道玄坂上。写真奥左手から国道246号線が合流し、この先は池尻方面。つまり、もちろん明治当時に246はないが、"池尻の砲兵隊"は写真奥方向からやって来て事故を起こした、ということになる
1909年(明治42年)の道玄坂。丁度代々木練兵場/駒場練兵場などが出来て、円山町が花街として発展して行く頃である
滝坂道を入ってすぐの最も高い位置。ここがかつて5m高かったということなのか。この先へ進むと"神泉谷"
神泉谷にある弘法湯跡。弘法大師がやって来て杖でエイッと泉を湧かせた
神泉谷の地形が良く解るアングル。この付近では道1本挟んだ高台は約10m/ビル3階ほどの高さに相当する
神泉に関してはno river, no life第一章・第五節で記しているが、江戸期までは神泉町7番地/京王井の頭線・神泉駅付近一帯に池が存在した。が、そこが水源だとすると滝は低過ぎ、円山町/困頁山は更に高かった筈である。が、まず円山町という名称の由来そのものがハッキリしていない。神泉を栄えさせるために削られた荒木山は、明治期に渋谷の鍋島藩/荒木氏の所有となった土地、という有力な説があるが、現在の円山町は明治期に隣接するいくつかの町を合わせて出来た町であり、花街としての発展のため京都の円山町に肖ったネーミングであるとも言われ、果たして由来に本当に"山"が関わるのかどうかすら疑問である。
が、神泉の池に注ぎ込む別の水源がその上の円山町にあったのなら、話は別だ。
都内でも屈指のラブホテル街となった円山町。かつての"花街"、円山はその後"色町"となった
この地に建てられて300年以上となる道玄坂地蔵尊。元々は豊沢地蔵と言う。敷地を共有する"三長"はかつての円山町でも有名な料亭
.....道玄坂地蔵尊脇にある説明板によれば"300年前"、この説明板が一体いつ書かれたのかは不明だが、少なくともそれは江戸期のものである。ただ、この地蔵尊は本来この位置にない。元々は大山道と滝坂道の追分にあったのが、例の砲兵隊の事故により5m掘り下げられた"道玄坂上"に建っていたのだと言う。滝坂道の追分.....それはまさに道玄坂上交番のある場所だ。
"滝坂道"起点となる道玄坂上交番。道玄坂地蔵尊はかつてこのあたりに建っていた
現在、道玄坂で最も高いのは滝坂道を入ってすぐの辺りである
困頁山とは、所謂"禿げ山"のことである。が、それが円証寺という寺の存在によって、裏山を墓地として使用したことによるのか、それとも無関係にてっぺんの禿げた山があったのか、は解らない。
あらためて整理しよう。

右かたはらに小高き岡あり。困頁山と云。これかふろ塚也。そのひがしのかたに円證寺の旧跡あり。

5m削られた道玄坂上/円山の山頂。その東側にあった筈の円証寺。明治期から栄えた三業地である円山、現在道玄坂地蔵尊がある場所にあった店は"三長"である。
三長は"山頂"ではないのか?。だとすれば、砲兵隊の事故により削られた5m分の高台、つまり困頁山の位置で、それを東側に見る、つまり西側にあった筈の円証寺は、まさに滝坂道の位置ではないのか?。そして、滝坂道を通したからこそ江戸期に既に存在しなかった寺なのではないのか?。そしてそこに豊沢地蔵尊が祀られ、後世にそこが仏の御加護の場所、として今も残されているのではないか。
豊沢地蔵.....豊かな沢。
1928年(昭和3年)に付近一帯の町名が道玄坂に統一される以前、道玄坂上は豊多摩郡中渋谷字豊沢。恵比寿の旧町名が豊沢だが、鬱蒼とした森を形成していた地域の多くがその文字の組み合わせで呼ばれた。
朝霧のいた円証寺は、現在の道玄坂地蔵尊こと豊沢地蔵が建つ円山町6番地のあたりを山頂とした困頁山の東側、つまり道玄坂から滝坂道へ入ったあたりに建っていた。そしてそこは豊かな水の流れる沢/豊沢があり、撫子姫との恋に破れてか渋谷長者の逆鱗に触れてか、神泉谷へと落ちる滝に身を投げた。神泉谷の現在の落差は前述のように約10m、これに最低でも5m加える計算となれば、まだ幼い朝霧の命を奪うには充分だったかも知れない。
道玄坂上から神泉谷へと"落ちる"滝坂道。かつての落差は現在以上のものとなり、豊沢からの流れは弘法大師による神泉の泉へと落ちた。定説通り弘法大師が空海のことであるのであれば、その存命期間は平安時代、774年(宝亀5年)〜835年(承和2年)、江戸時代に既に伝説となっていたことも頷ける
.....渋谷・朝霧ヶ瀧伝説。その舞台となった場所にオレはいるのか。
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