第二章・春の小川に逢いたい
第二章・第一節/春の小川はさらさら流る
1972年(昭和47年)、神山町の宇田川暗渠を後にした我が家は生家から見て小田急線代々木八幡駅の"向こう側"、代々木5丁目36番地の賃貸住宅へと移り住む。生家からは徒歩15分ほど。ここに決めた理由の中には、小学生のオレに転校をさせたくない、と言う母の希望もあり、実際には既に越境入学となる位置でありながら区役所に掛け合って、元々通っていた大向小学校(現・神南小学校)へバスで通い続けることとなったのである。つまり、元々さほど遠い場所への引越は予定していなかった結果、と言って良い。新居は小田急線の線路にほど近く、隣はブルガリア大使館、と言う所謂"閑静な住宅街"である。

.....写真はオレの2軒目の家から直線距離にして約30m、代々木5丁目65番地、小田急線線路沿いに建つ"春の小川記念碑"である。

小田急線参宮橋〜代々木八幡駅間にある"春の小川記念碑"。1978年(昭和53年)、この付近にお住まいの伊井勝美・根元組社長の熱意により建立された

春の小川はさらさらいくよ
岸のすみれやれんげの花に
姿やさしく色うつくしく
咲いているねとささやきながら

作詩:林柳波/原詩:高野辰之/作曲:岡野貞一

文部省唱歌、"春の小川"である。「知らない」と言う人はいないと見なす。が、この碑に書いてある春の小川は少し違う。

春の小川はさらさら流る
岸のすみれやれんげの花よ
にほひめでたく色うつくしく
さけよさけよとささやく如く

これは、原詩をお書きになった国文学者、高野辰之先生によるオリジナルの方なのである。
簡素に言うと、高野先生のオリジナルの「流る」や「如く」などの文語文が小学5年生仕様となり、1942年(昭和17年)に小学3年生の音楽の教科書に載せるにあたり改訂された(実は1947年(昭和22年)にもう一度細かい変更があり、現在の歌詞はその際のもの)。国文学者・高野辰之先生は1876年(明治9年)、長野県出身。東京音楽学校(東京芸大音楽学部)教授であり、春の小川を始め"紅葉"、"ふるさと"、"春がきた"など、多くの文部省唱歌をお書きになった。春の小川は1912年(大正元年)、当時代々木3丁目にお住まいだった高野先生が発表されたことから、よく娘の弘子さんを連れて散歩をしていらしたこのあたりの風景を詩ったもの、とされている(これがほぼ定説となっているが、原案は生まれ故郷の長野の風景だとする説も存在する)。
.....こんな感じ?.....ココが?.....ま〜さかあ〜.....
....つまり、このあたりはさらさらと流れる小川で、すみれやれんげの咲く岸があった、と言うのである。が、オレが知るこの場所は"近所のゴミ捨て場"である。しかし、ここが"春の小川"だと言うのならば、ぜひその風景を自分自身で感じたい、と痛烈に想い始めた。
都営地下鉄の駅構内(写真は都営新宿線新宿三丁目)にある"春の小川は東京にあった"の広告
代々木公園を望む代々木5丁目は現在閑静な住宅街だが、1920年(大正9年)に旧・宮内省南豊島御料池に明治神宮が出来るまで、この一帯は完全な"野原"でしか無かった。現在の代々木公園、我が母校の大向小学校(現・神南小)のあたりは1910年(明治43年)に陸軍代々木練兵場となり、現在の公園通りは"練兵場通り"と呼ばれていた。1945年(昭和20年)、第二次世界大戦での日本の敗戦を機に、現在の代々木公園一帯はGHQにより東京に駐留する米軍将校のための住宅、通称ワシントン・ハイツとなる。その後東京オリンピックを機に返還されたこの地が1967年(昭和42年)に代々木公園となった。また代々木5丁目は1212年(建暦2年)創建の代々木八幡神社を擁する代々木八幡山と代々木公園部分に挟まれた谷で、付近はかつて代々木九十九谷と言われたほど深い谷である。
上空から見たワシントン・ハイツ、現在の代々木公園の姿である。左上の森は明治神宮、さらに奥が新宿御苑。1964年(昭和39年)まで、ここは"日本じゃなかった"のだ
渋谷公会堂/区役所/税務署脇にあるニニ六事件慰霊碑。後方に見えるのは我が母校
振り返るとNHK放送センター
そして、この谷を流れていた"春の小川"は、河骨川(こうほねがわ)と言う名の川である。.....なんと美しい名だろうか。

その名の由来は浅い池や沼などに自生するスイレン科の植物、コウホネである。コウホネの名は水面に出たその根が白い骨のように見えるところから来ており、根は"川骨(せんこつ)"の名で漢方薬にもなっている。また、小川や池など、水質がきれいな所にしか生息しない。つまり、ここには美しいコウホネの咲く小川があった、と言うことなのだ。
小さな黄色い花を咲かせるコウホネ
河骨川は高台の初台から代々木5丁目を通って富ヶ谷へ抜ける短い川である。水源は初台近辺の深い谷。ここから現在の山手通りを抜け、別のもうひとつの源流と合流して十二社通り/小田急線の手前で渋谷方面へと向かう。現在暗渠を辿るのはやや困難で、特に小田急線参宮橋駅付近では線路を超えるあたりがやや不明瞭となるが、戦後の航空写真などでは明らかな川の流れが確認出来る。
ここからは代々木3丁目の高野辰之先生の御自宅のあった場所から、先生が娘さんと実際に歩かれたであろう散歩道を探りながら河骨川を下って行こうと思う。もちろん、春の小川を口ずさみながら、ね。
代々木3丁目に建つ高野辰之住居跡の木碑
高野邸の先には小田急線の高架が見える。このあたりはかつて"代々木山谷"と呼ばれた深い谷
高野辰之先生の御自宅は代々木3丁目3番地、西参道から代々木駅方面へ抜ける道沿いに今も高野家の御屋敷があり、その前には記念碑が建っている。ここから現在の西参道へ出て、左折して参宮橋のあたりから代々木練兵場の前を、途中に春の小川記念碑を見ながら河骨川沿いに歩いて行く、と言う構図が最も自然である。高野先生が1909年(明治42年)にこの地に移り住んだ頃、このあたり一帯は"代々木山谷"と呼ばれていた(現在でも通称として残っている)。山手通り(京王新線初台駅付近)と明治通り(JR代々木駅付近)の間はまさに山あり谷ありな地形で、河骨川はその谷を突っ切るように流れていた。高野邸はその最も高い位置に近く、その下流へ向けての散歩コースはきっと素晴らしい眺めだったのだろう。
高野邸から真っすぐ西参道へ出た位置にあるバス停。このバス停の名がかつては"代々木山谷"だったのはオレの記憶にもある
西参道から小田急線参宮橋駅方面を望む。この道を行くのが最も自然な散歩コース.....と勝手に思い込んでみる
小田急線参宮橋駅。駅は眼下、左側は明治神宮、更に進むと代々木公園(当時代々木練兵場)。ここから緩やかな坂を下って歩いて行く
坂を下りきったあたりにあるコカ・コーラの営業所。地下が暗渠だからであろう、建物の内部は空洞である。このあたりを小田急線の線路を超えて来た河骨川が流れていた
丁度その左手。代々木練兵場跡地はワシントン・ハイツを経て1964年(昭和39年)、東京オリンピック開催時に選手村となった。その後"オリンピック記念青少年総合センター"となり、オレも小中学生の時に剣道の区大会で入ったことがある
現在も代々木公園内にはオリンピックの選手村時代の宿舎が一部保存されており、その姿は敗戦後にここに建てられたワシントン・ハイツの姿を彷彿とさせる
写真奥がワシントン・ハイツ、つまりアメリカ。小田急線の線路を挟んで手前の木造家屋が代々木5丁目の民家、すなわち日本。.....戦後の象徴的な写真だ
ここが日本に"戻った"のは1964年(昭和39年)、代々木公園が出来たのが1968年(昭和43年)。.....知らなかった。そして、信じられない
コカ・コーラの営業所を過ぎると、やがてここまで普通の歩道となっていた河骨川の本格的な暗渠が始まる。道幅は狭く、四輪車は入れない程度
振り返ったアングル。左手には小田急線が走り、川の流れは写真奥からS字を描きながらやや下ってくる。写真中央部には山谷橋と言う小さな橋がかかっていた
暗渠が始まってしばらくは民家の間で緩やかなS字を描きながら進む
小田急線の線路沿いを平行する、この小さな一本道が河骨川であった。もちろん、小田急線開通時にある程度は進路がコントロールされているが、基本的には一直線の川である。1912年(大正元年)当時、左手は谷底の野原を挟んで代々木練兵場。.....高野親子がニコニコと歩いたであろう川沿いである
線路反対側、中央の奥まった高台のマンションがオレの2軒目の家跡(当時の建物はもうない)。右手の白い建物はブルガリア大使館である。当時は家の窓から、写真左手の小田急所有の倉庫の敷地の先に線路と歩道.....いや河骨川暗渠が見えていた。現在は大きなマンションが建って線路は見えない
参宮橋4号踏切から。電車後方のマンションが小田急倉庫跡、かつてはこのアングルからオレの家が見えていた。また、ここは北星橋と言う橋の跡だが、現在何も残ってはいない
唯一、参宮橋5号踏切(記念碑付近)脇地面から、ここにかけられていた新潮橋の遺構が片方だけ覗いている
新潮橋から代々木八幡山を望む。写真奥の高台の森が代々木八幡神社である。右手の自宅から中央の横断歩道の位置で曲がってこの踏切を渡り、左へ曲がって河骨川暗渠上を代々木八幡駅に向かって進むのがオレの"地元ルート"であった.....もちろん"知らずに"である。ちなみに春の小川記念碑は逆に写真右手約10m.....そう、実は記念碑の前を通ることは少なかったのである
暗渠沿いの民家は殆どが一段高い位置に建てられており、古い家になればなるほど玄関は逆側にある。ここが川辺だった証だ
S字を描く河骨川暗渠脇に、小さな家庭菜園を持つおじさん。彼の記憶には"春の小川"があるのかも知れない
1947年(昭和22年)の小田急線代々木八幡駅付近。小田急線線路沿いに、細いながらもしっかりとした河骨川流路が写っている
現在の小田急線参宮橋駅あたりから陸軍代々木練兵場を左に、緩やかに下りながら右手にのどかな田園風景を望みながら河骨川が流れる。このあたりから丁度小田急線の線路沿いに細い暗渠が続き、線路沿いに建つ古い民家は皆一段高い位置に軒下を構えている。空撮の写真でも解る通り、河骨川は相当幅の狭い川であり、現在は小田急線の線路の脇に細々とした歩道として存在している。そして、特筆すべき特徴として、小田急線参宮橋駅から代々木八幡駅にかけての数百mの間、まったくカーブを描かずほぼ一直線に流れる区間がある。オレ自身、おそらくこの部分があまりにも真っすぐだった為にここが川であるとは考えなかったのだと思う。
線路の向こうに見える路地の突き当たりを右に10mほど行った場所に、20年暮らしたオレの2軒目の家があった
記念碑には川辺に佇む高野親子の姿が彫られている
.....そして小田急線代々木八幡駅が近づいて来たあたり、代々木公園と代々木小公園を望む場所に春の小川記念碑が建っている。正直、この場所に記念碑があることはここに20年住んでいた間に知ってはいた。が、前述の"あまりにも一直線な"ために"このあたり"とは考えてもまさかこの石碑の真裏の線路沿いの細い道がその川だとは夢にも考えなかったのである。
この場所に高野先生と娘さんが立ち、ニコニコと微笑みながら岸に咲くすみれやれんげを眺めている図を想い描く。石碑には丁度そんな場面が彫られている。右側に描かれている橋はどこだろう。手前の踏切のところにあった橋は新潮橋と言う名だったらしい。いや、小田急線開通は1927年(昭和2年)なのだから、春の小川の頃にはまだ無いか.....高野先生、ここに20年も住み、毎日のように歩きながら、この道が春の小川の舞台だと知らなかったオレはマヌケです。
サラサラと流れる河骨川、オレも見たかった。
寂しさや虚しさじゃない。なんと言うか.....切ないだけ
我が家が愛用していたクリーニング店も、河骨川暗渠沿いにある。懐かしい
代々木八幡駅が近づくと暗渠は小田急線の線路沿いを離れ、住宅地の真ん中を進む。写真中央の左側の駐車スペースにロータス・ヨーロッパが駐車してあって、スーパー・カー・ブーム(1970年代後半)の頃に良く見に来たっけ
河骨川暗渠沿いの壁面に、近くの学校の先生らがペイントをしていた。.....理由は解る。きっと、何も描いてなければスプレーで落書きをするバカ、いや大バカがいるんだろうな
玄関先に古い小さな水車、左側の地面には小さな側溝。.....このお宅は河骨川の流れと共に歴史を重ねて来たのだろう
民家の間を縫って来た暗渠は突然遊歩道に突き当たって終わる
そう、ここが河骨川の終点、宇田川との合流地点である。写真左手から流れて来た宇田川に注ぎ、渋谷/オレの生家方面へと流れて行く
こちらは小田急線代々木八幡駅脇の山手通りのガード、八幡橋下トンネル。丁度宇田川の支流達が集まっているあたりである。元々ここは違法な落書きをするバカ、いや"大バカ"が多く、2003年(平成15年)、武蔵工業大学の小林茂雄氏を中心に、NGO、富ヶ谷と上原の町会の方々、そして地元の小学生達が集まってこのトンネルに春の小川を蘇らせる壁画を制作した。小林氏は他にも下北沢や代々木上原等の"落書き被害対策"に積極的に協力されている
ほら、春の小川!
河骨川暗渠はその後代々木八幡駅付近で細かいS字を描き出し、住宅地の間を縫うように続いて行く。そして幾つかの支流との合流を迎え、右方向から流れて来た大きな流れ、宇田川とここで交わることになるのだ。.....そうか、オレは生まれてから8年間暮らした宇田川沿いの家から、その上流の河骨川沿いへ引越し、そこで20年間も過ごしていたんだ。

.....1897年(明治30年)の河骨川と言われる現存唯一の公式写真。まだ陸軍代々木練兵場にすらなっていない、国木田独歩による"武蔵野"だった頃の河骨川である。現在、この付近で同じような風景を見下ろすことはもちろん出来ない。それが都市化であり、現代社会に於ける中小河川の運命とも言える。かつて"春の小川"と呼ばれた小さな川は、ほんの数十年の間に現代人の手によって汚され、蓋をされ、そして忘れられようとしている。
.....だが、確かにこの川は今もこの場所にこうして存在しているのである。支流の宇田川とともに、暗く冷たいコンクリートの蓋の下で。
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