第三章・トーキョー・ウォーターワークス
第三章・第七節/神田上水助水路と角筈・十二社・淀橋
現在"西新宿"と呼ばれるあたりはかつて角筈(つのはず)/十二社(じゅうにそう)/淀橋(よどばし)と言う地区だったことには何度か触れて来たが、これらの地域が西新宿と言う名に統合されたのは1970年(昭和45年)のこと。この文中に出て来る代々木山谷などもこの年に代々木に統合されている。また、新宿区と言う区が出来たのは1947年(昭和22年)のことで、それ以前は四谷区、牛込区、そして淀橋区と言う3つの異なる区だった。

角筈/十二社/淀橋、のラインには丁度"神田上水助水路"が通っていた。この聞き慣れない名の水路の暗渠を辿りながら、近年大きな変貌を遂げた西新宿のかつての姿を探って行くことにしよう。

神田上水助水路とは1667年(寛文7年)、神田上水の水不足を補う目的で玉川上水路から神田上水路へ分水させた水路のことである。玉川上水旧水路の正春寺橋付近から現在の十二社通り沿いに進み、途中熊野神社を通って淀橋の神田上水路へと注ぐ約1.5kmの水路で、1895年(明治28年)に淀橋浄水場が出来るまで使用されていた。その後、余水放水路/排水路として使用していたが、1965年(昭和40年)に埋め立てられてその姿を消している。
玉川上水旧水路、正春寺橋跡。代々木橋で西参道を渡って来た先、もうすぐゴールと言う位置から神田上水助水路は始まる。玉川上水路は写真左手から右手へ、神田上水助水路はここから写真奥、つまり北側へと向かう
正春寺。甲州街道と西参道の交差する角に建つ、徳川秀忠の乳母、初台の局(つぼね)が建てた寺である。また、近隣の初台と言う地名も初台の局から来ている
.....神田上水助水路の取水口に正春寺橋の位置が選ばれたのは、この先、神田川本流の方向へ十二社の谷を使って真っすぐ落とし込むことが可能だったからと思われる。ここは玉川上水路そのものも牛窪の谷を超えて平地を進む位置であり、ここから実際に流路沿いに歩いてみるとその理由が良く解る
神田上水助水路は右手に正春寺を見ながら甲州街道方面(写真奥)へと続いて行く
甲州街道を渡った流路は一旦新宿パークタワーの敷地内へと入るが、現在これと言った遺構は残っていない
.....角筈の地名の由来は熊野神社の坊主が鹿の角で出来た杖を使っていた、と言う伝説から来るとか、この地の名主であった与兵衛が優婆塞(うばそく/僧にならず山籠りして修行する身)で、優婆塞の伊勢神宮の忌詞としての呼び方が角筈だったから、などいくつかの説がある。またこの地にあるのが角筈十二社熊野神社で、応永年間(1394〜1428頃)に紀州熊野から流れてた鈴木九郎昌蓮が馬買で富を得、中野に住んでいたところから"中野長者"と呼ばれ、故郷の熊野三山十二所権現をこの地に祭り、この十二所権現が十二社の由来となった。現在でも地元の方の中には"角筈十二社"と呼ばれる方が多い。
1974年(昭和49年)当時の西新宿、中央手前が角筈ガスタンク、右手の道は首都高速4号線。.....人気絶頂時の"太陽にほえろ!"のオープニングを思わせる京王プラザ/住友/三井/KDDIの4つのビル、このくらいがオレにとって一番しっくり来る"新宿副都心"の姿だ
現在、かつての角筈ガスタンク跡地に建つのは新宿パークタワー
玉川上水新水路(写真奥から手前)を横切る十二社通り、右手のビルは角筈区民センター。このあたりには名称変更後30年以上を経てもかつての呼び名を冠したままのものが多い
水路は玉川上水新水路(現・水道道路)を超え、新宿中央公園(写真右手)内へと入って行く
新宿中央公園が超高層ビル郡と共にかつての淀橋浄水場跡地であることは前述の通りだが、現在公園敷地内には淀橋給水所がある
淀橋給水所の上に架かる橋は"水の橋"
今も通りにその名を残す十二社。現在は広範囲に渡って西新宿と呼ぶ。写真奥のビル郡の位置に十二社大池が、さらに右手に小池があった
十二社池は1606年(慶長11年)、伊丹播磨守によって作られた天然の湧き水による大小ふたつの池で、本来の目的は田畑の用水であった。そしてすぐ側を流れる神田上水助水路を使った"熊野の滝"と共に江戸の景勝地となり、享保年間(1700年代)には多くの茶屋や料亭が出来、観光地として栄えた。明治維新後も屋形船や釣り船などでその人気は続いたが、1898年(明治31年)の淀橋浄水場の建設に合わせて熊野の滝は無くなり、徐々に江戸の名所の名残りも消えて行った。最終的に十二社の池が埋め立てられたのは1968年(昭和43年)、まだほんの40年ほど前のことなのである。
安藤広重作の角筈熊野十二社権現
大正初期の撮影と思われる十二社池。その賑わいが伝わって来る
十二社は真っ黒い天然温泉があることでも有名。.....そう言えば中学生くらいの時、このへんでボーリングした記憶があるな。しかし今、このへんにボーリング場はない
新宿中央公園内にある"ジャブジャブ池"越しに見る十二社大池方面。木々が植えられているラインが神田上水助水路跡である
僅か30数年前まで存在していた筈なのに、全くと言って良いほどその痕跡の残らない十二社大池跡地。後方には東京都庁が見え、時代の変化を感じさせる
池のあった付近は今でも花柳界の賑わいの残像が見え隠れする。泉南同様、十二社付近も今でも"昭和の匂い"が残るところだ
.....実は十二社池には明治以後、一旦は"一大レジャーランド計画"が持ち上がった。しかし全ては淀橋浄水場の建設によって消え、昭和初期にまず小池が埋め立てられ、その後淀橋浄水場が役目を終えた1965年(昭和40年)には大池も埋め立てられる運命となり、4年後の1968年(昭和43年)に完全にその姿を消すこととなった。玉川上水路/神田上水助水路/淀橋浄水場、そして十二社池、結果的に西新宿の"水"は全てが1960年代に一斉に姿を消してしまったことになる。もちろん、オレはどれも目にしていない。
1947年(昭和22年)当時の西新宿.....いや、角筈十二社の姿。写真右下から上へと熊野神社を通過して進む神田上水助水路と、豊かな水をたたえた十二社の池が確認出来る。十二社池のレジャーランド計画は、写真右手に圧倒的な存在感を示す淀橋浄水場の建設により消えた
十二社池の上の歩道橋から下流方面を見おろす。十二社池は写真左手のビル郡のあたりに存在していた。神田上水助水路は写真右手を下って行く
やがて流路は熊野神社の敷地内へと続く
新宿中央公園の敷地内に建つ熊野神社本殿
方南通りから見た新宿中央公園入り口、右手奥は熊野神社。丁度写真奥から熊野大滝が流れて来ていた。隣接するバス停の名は十二社池の下
イギリス人報道カメラマンのフェリーチェ・ベアト撮影による熊野の滝。ベアトは1863年(文久3年)来日、幕末の日本を数多く撮影した
熊野神社内の池に作られた小さな滝。当時の面影を残す、モニュメント的な存在である
十二社通りと熊野神社を分ける土手には、あちこちにコンクリート製の大きな石蓋が残る。神田上水助水路時代の遺構だろうか
こちらは隣接する新宿中央公園内に作られた"新宿ナイアガラの滝"。.....熊野の滝と直接の関係はないが、位置的にも規模的にもイメージは近い
丁度かつて滝のあったあたりで新宿中央公園は終わり、方南通りを超えて水路は淀橋地区へと向かう
方南通りを超えて北新宿方面へ向かうと、神田上水助水路はようやくコンクリート暗渠としてその姿を現す。ここまでが歴史の中に埋もれた"記憶"と言う存在だったのに対し、新都心化から一歩遅れたこの地域では街並も、そしてかつての水路も未だ当時の面影を残している。
方南通りを超えた位置から暗渠道が始まる
東京都水道局管理地となったこの道路が神田上水助水路跡である
けやき児童遊園と名付けられた、植え込みのある一本道。ゴミ捨て場となっているこの柵の足元は.....明らかに橋跡である
.....またコイツらだ(笑)
梅月湯はこのあたりでは古くからある有名な銭湯
神田上水助水路暗渠はビル郡を抜け、一旦十二社通りへ戻って行く
けやき橋商店会。昭和の色が濃く残り、昔ながらの面影が感じられる
....神田上水助水路はやがて淀橋地区へと入って行く。神田川笹塚支流の項目でも紹介したが、このあたりには特に既に存在しない"淀橋"の名称が今でも多く見つかる。中でも、この地域の方々が河川/水道局と協力して得た賃金で建てられた淀橋会館は今でも淀橋地区の象徴的な存在である。
1942年(昭和27年)完成の淀橋会館(写真中央奥)。神田上水路の洗砂作業を地元淀橋の青年団が請け負い、東京都水道局から得た資金で建てたもの。現在でも様々な会合や集会で使用されている
淀橋会館全景。築60年以上とは思えぬほど奇麗に使われている。まさに河川と"共存"して来た街なのだろう
淀橋会館脇に続く暗渠は右手に遊具のある公園、左手が狭い通路、と言う造り
やがて公園が終わり、暗渠は通路部分だけの狭い一本道となる
陽が暮れるとこんな感じでライト・アップされる
.....隣接する建物の名称と、現在の住居表示とのギャップが興味深い
やがて通路左側は東京電力の作業場となる(写真は柵の上から撮っているが、実際には見えない)。.....奥の柵の向こう側に空間が感じられる
左手に川筋が現れ、丁度ここで暗渠が終わる。眼の前には大きな橋
.....辿り着いたのはまさに淀橋。神田川上に架かる歴史ある橋である
上流側からのアングル。中央の橋が淀橋、すぐ右下が神田上水助水路の合流口跡。現在淀橋自体が工事中のため淀橋上から撮影出来るアングルが存在しないのが残念
現在この地は中野坂下と呼ばれる。橋上は青梅街道、神田川笹塚支流の合流口からも数分の位置である
.....神田上水助水路は西新宿地区の再開発/都心化に完全に飲み込まれた十二社と、置き去りにされた淀橋との奇妙なコントラストの中にあった。そこに新しいものが必要なら壊し、計画が具体化していないのなら蓋をして放っておく。元来、江戸の大水道としての役目を終えた上水路に、現代の東京は何の用もないのだろう。だが完全に消し去るにはあまりにもその規模が大きく、"清流の復活"などと言うのも非現実的である。そして時代は流れ、無用のものは忘れられていくのが運命なのだ。

.....最後に、神田上水について簡単に触れておこう。
これは実は神田川そのもののこと。井の頭公園内の井の頭池の湧き水を水源とする神田川は途中で善福寺川と妙正寺川が合流し、隅田川へと注ぐ全長25kmほどの大きな川である。元は平川、小石川上水とも呼ばれ、1629年(寛永6年)に徳川家康が井の頭池から文京区の関口までの区間を整備し、江戸の上水道とした。現在神田川の全ての区間が開渠なのは、東京と言う場所を考えると奇跡的なことだ。ちなみに神田川、と言う名になったのは1965年(昭和40年)、神田上水と言う名称は既に過去のものとなっている。
神田川、明大前の現在のオレん家からもっとも近い神泉橋
こちらは大久保通り北新宿の末広橋から上流方向。西新宿の新都心が見える
JR線お茶の水駅、お茶の水橋上から。デカッ!!
自然河川を改造する、と言う形で出来た神田上水。玉川上水以前に作られた歴史的な上水路である。そして文京区にある東京都水道歴史館に、江戸の上水道に関する展示と共に江戸時代の神田上水路が再現されているオープン・スペースがある、と言うことで早速行って来た。
ホール内には江戸の町が再現され、上水や井戸などが稼働している。ちなみにオレは何故か「な〜るほどなコンチクショー」とか「べらんめえ良く出来てやがるぜ」とか言いながら見てる(カンタン過ぎ)
様々なサイズの水道管。管と言っても当時は当然木製、現代の常識で考えれば当然衛生面が不安に思える
玉川兄弟.....そう、玉川上水路をお造りになった方々だ
これは馬水槽。人間(裏)、馬(上部)、犬や猫(下部)にそれぞれ別々の口から水が出ると言う衛生面に配慮した画期的な構造の水飲み場である。え?、そんなの見たことナイ?
.....実はコレと同じものが新宿駅東口、それもアルタ前(!)にあるんだな。知らなかったでしょ
そして水道歴史館のテラスに出ると、そこは本郷給水所公苑と言う緑豊かなスペース。様々な緑と水のオブジェの中に、神田上水路の仕組みがかなり具体的に再現されていた。
歴史館に隣接する本郷給水所公苑。水と緑のゆっくりとした空間
この公苑内に神田上水路の仕組みが再現されている
東京都水道局のマスコット、"すいてきくん"と2ショットだー!(.....)
.....幡ヶ谷から明大前へと移り住んだ約15年間、代々木八幡から西原地区の中学校へと通った3年間。オレの側にはいつも新旧・玉川上水路、南北・神田川笹塚支流、そしてそれらに繋がる支流や源流があった。幼い頃、父に連れられて何度も散歩に来た広大な空き地は淀橋浄水場跡であった。そしてそこは今、新宿新都心となった。オリンピック・ベイビーズには、東京の大水道は見えなかった。が、こうしてほんの少し奥まで行くことによって、そこにかつて何があり、何故無くなり、そしてどうなったのかを知ることが出来た。結果的にオレの胸に去来するものを言葉にするなら"複雑"以外の何物でもない。

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