第五章・桃園川complete
第五章・第四節/限りなき挑戦・天保新堀用水物語

.....さて、前節までの流れで杉並の農村が六ケ村分水の恩恵を受けて潤った桃園川の水により、どうにか生き延びたことはお解り頂いたと思う.....が、それでも広大な武蔵野台地に於いて、所詮小川レベルの桃園川のみでは相変わらずギリギリの状況、もし天候に恵まれない年でもあれば不作/凶作間違いなし。特に上流の天沼/阿佐ヶ谷付近はまだしも、下流にあたる高円寺や中野にとっては例えほんの僅かな差であったとしても、水は多いにこしたことはない。
「向こう側は良いなあ.....」
天保10年(1839年)、もう何年も凶作の続く桃園川の谷で、誰かが呟く。"向こう側"とは、青梅街道の走る高台の反対側にある、桃園川よりも遥かに大きな河川・善福寺川を擁する田端村/成宗村(現・成田/荻窪方面)の谷のことである。
「向こう側から水を分けて貰えないだろうか?」
.....それは無理な話だ。なにしろ小規模とは言え、"向こう側"は一山越えたところ。かの玉川上水でさえ山や窪地を避けて通っているというのに、山の向こうの別の谷から水を引くなどということが可能だとはとても現実的には思えない。

.....が、事態の深刻さは彼等を動かした。天保11年(1840年)、馬橋/高円寺/中野の三ケ村は幕府の許可を得て、"山の向こう側から水を引く"という一大プロジェクトに着手する。.....だが、いったいどうやって???。







-時は天保十年。
天沼村、阿佐ヶ谷村は宝永四年の養い水(千川上水六ケ村分水)によって潤い、少ないながらも農民達は田を枯らすことなく、なんとかやっておりました。
が、更に下流の馬橋、高円寺、中野の三ケ村はその養い水の恩恵に肖れず、相も変わらぬ水不足に悩んでおりました。特にこの三ケ村には平坦地特有の"天水田"があり、水不足は何よりも命取りだったのでございます。そこへ天保四年からの長期に渡る干ばつ"天保の飢饉"が襲い、干上がった田畑を前に三ケ村の農民達は雨乞いを繰り返すしかなく、更に天保七年には冷雨の被害に合い、事態は絶望的となったのでございます。


元より桃園川の谷は浅く、千川上水からの引き水を天沼村、阿佐ヶ谷村に流し入れた際の残り水で三ケ村の田を潤すなどというのは到底不可能。武蔵野台地に多数湧き出る小さな流れが幾つも桃園川に注いでおりましたが、多くの農村を抱える三ケ村全てが潤うにはあまりにも不充分だったのでございます。
困り果てた三ケ村は一致団結し、どうにかこの状況を改善すべく名主三人(馬橋村・大谷助次郎/高円寺村・大谷徳左衛門/中野村・堀江卯右衛門)を集め、打開策を講じる運びとなったのでございます.....。

「.....なあ、なんかいい案はないか?」
「あるわけねえよ。これ以上雨が降らなきゃ、ウチの村の田んぼはオシマイだあ.....」
「田端村とか成宗村の方じゃあ、水田に水が溢れて困ってるってよ」
「そりゃそうだ。あっちにゃ善福寺川っていう、水の豊富なありがたい川があるからな」
「.....そんなに水が溢れてるんなら、あっちから水を分けて貰えたらいいのになあ」
「そうもいかねえよ。何しろあっちとこっちの間にゃ青梅街道があって、しかも山になってる、と来たもんだ。桶に水汲んでえっちらおっちら運んで来るってわけにもいくめえ」
「山か.....なあ、胎内掘り、ってのはどうだい?」
「胎内掘りぃ?」
「おう。善福寺川から、山に穴掘って桃園の谷に水を流すのさ」
「冗談だろ。そんなこと出来るわきゃあねえよ」
「.....しかしよ、そうでもしねえと、こっちは飢え死にしちまうぜ」
「うーん.....ここはひとつ、お代官様にお願いしてみるか」
「駄目で元々だ。これ以上我慢ならねえ」
「.....よし!」

切羽詰まった三ケ村名主達は、一か八かの"胎内掘り"という案を出しました。水量の豊富な善福寺川を擁する近隣の田端村/成宗村から、間に立ちふさがる青梅街道の地下を掘り、三ケ村のある桃園川の谷へ水を引こうと企てたのでございます。もちろん常識ではそんなことは考えられる筈もなく、しかし彼等の村の田に充分な水を引こうと思えば、もう他に案などないのもまた事実でございました。

そして天保十年、馬橋村/高円寺村/中野村の三ケ村名主は、幕府直轄の代官、中村八太夫の元を訪ねたのでございます。

「.....というわけで、もうこれしか手がねえんです。どうかお慈悲を.....」
「そうか.....うむ、よくわかった。ではその方らの願いを叶えるべく、幕府としても最大限の協力を約束しよう」
「ほ、本当ですかい!?」
「農村保全は幕府としても重要なこと。ではまず善福寺川流域の田端村/成宗村と相談し、流路を決めねばならんな。幕府としては助成金として二百七十両を用意いたすから、その方らは綿密に計画を練るべし」
「.....あ、ありがとうございます!!」

こうして前代未聞の"胎内掘り"という案は身を結び、無事に幕府の許可/協力を取り付けることが出来たのでございます。
中村代官を初め三ケ村の名主達が田端村と成宗村を訪ね、善福寺川に大谷戸橋の架かる"ひろまち"という一帯から、最短距離となる馬橋村への用水路建設への協力を願い出ました。地元の代表者と協議を行い、田端村側の「自村の灌漑用水の確保さえ出来るのなら」との回答を元に、この夢のような案を現実のもとする準備が出来たのでございます。

「いやあ、良かった良かった。これで一安心だ」
「.....ところでよ、いったい誰がやるんだ?」
「.....ん?」
「胎内掘り作って山越えて川から川へ水を引くなんてこと、いったい誰が出来るんだ?」
「そりゃ.....うーん、そうか。誰もやったことねえもんなあ.....」
「.....そうだ、ウチの村に、水盛り大工の銀蔵ってのがいるんだ。家は元々農家だし、腕は確かだ。あいつなら出来るかも.....いや、あいつしかいねえ!!」

こうして、馬橋村で農業兼帯の水盛り大工であり、用水路開削技術に優れた川嶋銀蔵というひとりの男が、この世紀の大工事の設計/施工/監督を一任されることになったのでございます。

「.....というわけなんだ。どうだ、銀蔵?」
「どうだも何も、やるしかねえんでしょ?。まあ、任しといてくだせえな」
「さすが馬橋の銀蔵だ!。頼んだぜ!!」
「お、お願いしますよ!!」

「.....とは言ったものの、胎内掘りか.....。山向こうから用水掘引いて来れるのは.....成宗の弁天さんにある池までだな。そこから穴掘って、青梅街道越えたところで谷になるから、そこからはまた用水掘で桃園川に落とすか.....」

銀蔵は田端村のひろまちから掛樋を造り、中間地点となる須賀神社/成宗弁財天の境内にある弁天池に一旦水を集め、そこから胎内掘りで青梅街道を超え、最短距離となる位置の石橋用水路に流れ落ちるように設計を致しました。元々百坪の広さのあった成宗弁天池はこの大工事のために更に広げられ、その際の掘削された土は、盛り土によって出来た山を"富士塚"と呼ぶほどの量でございました。
その後田端村の意見と中村代官の実況見分を経て、成宗弁天池までは最終的に大谷戸橋から善福寺川流域の矢倉山を擁する矢倉台地の地下を掘って迂回し、更に掛樋によって弁天池へと水を落とす流路となりました。
.....そして、水盛り大工・川嶋銀蔵の闘いが始まったのでございます。

.....胎内掘りはそれは想像を絶する過酷な作業でございました。
総距離にして千二百六十間、胎内掘りは地下二間半、高さ四尺五寸、幅五尺三寸、水を流すための勾配は五百分の一。これを寸分違わず掘り進めるのでございます。当然ながら、この時代に正確に尺を測る術も、穴を掘るための機械もございません。用意されたのは鍬と鋤のみ。銀蔵と作業員は、ひたすら手作業でこの胎内掘りを掘り進めたのでございます。

.....そして迎えた天保十一年九月、新堀用水の胎内掘りは無事に青梅街道東側へ通貫。銀蔵は遂にこの前代未聞の偉業を達成したのです。こうして三ケ村は幕府と田端村/成宗村などの協力の元、遂に念願の灌漑用水を手に入れたのでございます。

「どうでい!やったぜ!!」
「凄いぜ銀蔵!これで三ケ村は救われるぞ!!」
「うう.....これで母ちゃんにおまんま食わせてやれる.....」
「ありがたやありがたや.....」
















































.....ところが。
思いもよらぬ、大変なことが起こってしまいました。僅か二ケ月後の大雨で、なんと田端村/矢倉山付近の土手が崩壊してしまったのです。
が、綿密な計算と設計を施し、努力の結晶によって作られた筈のこの水路が、いったい何故こんなにも早くそして簡単に、変わり果てた無惨な姿となってしまったのでありましょうか.....。

「ああ.....なんてこった」
「いったいどうしちまったってんだ?」
「もう駄目だ.....明日からどうやっておまんま食えばいいのやら.....」






.....用水路の土手が崩壊した原因は、なんと"カワウソ"だったのです。
矢倉山/善福寺川流域に住み着くカワウソが流路土手に巣穴を作り、それが堤防の強度を脆く、柔くしてしまっていたのでございます.....。

「くそっ、カワウソの野郎め!。何てことしやがるんだ!」
「まあまあ。カワウソとて生き物、連中に罪はなし。.....かと言って大金をかけて修繕したところでまた同じことが起こらんとも限るまい。ここはひとつ、田端村と成宗村に了解を得た上で、カワウソの被害のない別の流路を作り直すしかない」
「とは言っても.....」
「なあに、金のことなら気にせんで良い。再び幕府が助成金を出すからして、銀蔵は気にすることなく作業に務めて貰ってかまわん」
「代官様.....」

.....ところで、最近とんと見かけなくなったこの"カワウソ"なる生き物。いったいどのような輩なのでありましょうか?。






「うーん.....するってえと矢倉の山あ避けた方が良いってことか。またカワウソの野郎共に巣穴掘られちゃたまらねえからな.....とは言え、急がねえと三ケ村の連中が待ってるんだ.....。よし、ここはひとつ思い切った作戦で行ってみるとするか!」

.....銀蔵、何か名案が浮かんだようでございます。

天保十二年、再び銀蔵の闘いが始まりました。中村代官の助言もあり、今回は矢倉山を迂回する流路ではなく、当初計画された際の田端村/大谷戸橋〜西田端橋辺りのひろまちから矢倉台地を胎内掘りし、最短距離で成宗弁天池へと水を通す流路を選んだのでございます。












.....天保十二年十二月、努力の甲斐あって遂に新たな新堀用水路が完成致しました。そして今度はカワウソの被害もなく、千川上水六ケ村分水の恩恵を受けられなかった馬橋/高円寺/中野の三ケ村はようやく豊かな水を得、その水は三ケ村の約半分にあたる二十二町七反の田を潤し、後の大正時代に至るまで新堀用水路の恩恵を受けることが出来たのでございます。

「豊作だあ!」
「いやあ、胎内掘りで出来た米なんて、きっと三ケ村が初めてに決まってらあ!」
「ここまで長かったなあ。でも、銀蔵のおかげでようやく俺達の村にも水が来るようになったんだ.....」






その後精米や製粉のための水車に利用された天保新堀用水路は、現在暗渠化され"馬橋児童遊園"として、かつての馬橋村に暮らす童達に安全と憩い、そして幾つかの遊具による遊びの場として、今も活躍しているのでございます。

めでたし、めでたし。



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