第五章・桃園川complete
第五章・第六節/"消えた街"・馬橋

前述の第五章・第四節/第五節で、天保新堀用水が桃園川流域の農民にとってどれだけ重要な役割を担っていたかは良〜く解って頂けたと思う。ここで、桃園川緑道沿いに多く見られる支流群の遺構の内、取水ではなく桃園川へと流れ込んでいたいくつかの川跡の謎に迫ってみよう。

杉並/中央総武線沿線、天沼〜阿佐ヶ谷〜高円寺あたりの住宅街を歩いていると坂道の有無を問わず嫌というほど多くの石蓋暗渠/金太郎の車止めと出逢う。これはつまりこの一帯が如何に農村として重要な役割を担っていたかを如実に物語っている。また同時に、JR線の線路が決して街の道路と平行に走ってはいないことが解る(つまり良く迷子になる/笑)。

JR中央線、阿佐ヶ谷駅付近の航空写真(現在)。こうして見ると線路に対して街が斜めになっているように見えるが実際には町並みに対して線路が斜めに横切っている、という表現が正しい
武蔵野の大動脈・中央線は、新宿を出て大久保を経由する際に北から西方向へとカーブした後、東中野から立川あたりに至るまでは地図上で見る限り真っすぐに西へと進んでいる。これには理由があり、今でこそ鉄道誘致は街/住宅街の発展に必要不可欠なものだが、武蔵野の農村にとって鉄道などというものは本来何の接点も持たない、別世界の無用の長物でしかなかった。
東京駅から甲信越方面へと向かう中央線、元々は多摩/山梨方面から石灰石や木材などを運ぶために整備された"甲武鉄道"(甲は甲州、武は武蔵野)が始まりである。当初は甲州街道/青梅街道沿いに鉄道を通す予定が、和田/永福あたりの農民が「耕地の減少は壊滅的な打撃」、宿場町である高井戸では「旅人が鉄道を使えば商売にならない」と反対、やむを得ず北側の

1889年(明治22年)開通の甲武鉄道1号機関車。現在のJR中央線の前身である
原野ばかりのルートに変更、当然沿線農民達の反対はあったものの、1889年(明治22年)に新宿〜立川間の"武蔵野原野一直線ルート"で開業、中央線が真っすぐなのには実は「誰も住んでいない地域に追いやられた」という経緯があったのである。ちなみに開業当時の停車駅は新宿〜中野〜境(現・武蔵境)〜国分寺〜立川。杉並区内には一度も停まらない鉄道であった。
.....そして、計画段階であれほど反対したにも関わらず、いざ鉄道が開通し、庶民の新たな足/移動手段を眼の前にした時、近代化という歴史の中にいた彼等は"駅建設誘致合戦"を繰り広げることになる。
明治時代の当時、現代のように鉄道が通るからといって付近住民に立ち退き料のようなものが出ることもなく、ただ「どけ」と言

1924年(大正13年)の甲武鉄道・荻窪駅付近。まさに農村の中を走る貨物線の様相
われるも同然。つまり、鉄道駅設置は街自体の発展や利便性を追求するか否か、に焦点が絞られる。元々青梅街道沿いに駅が欲しかった甲武鉄道はまず阿佐ヶ谷に駅建設を打診。このあたりなら中野と境の間として理想的な駅と考えたが、蒸気機関車の巻き起こす火の粉が農家の藁葺き屋根に危険であるとし、阿佐ヶ谷側がこれを拒否、こちらも先祖代々の土地を手放すことを拒否していた荻窪が最終的に折れ、1891年(明治24年)に杉並最初の駅として荻窪駅が開業。その後鉄道が電化され、農村への被害の心配も減って来ると人々の鉄道への見方も変わり、徒歩や馬に代わる便利な移動手段、という概念が定着し始める。宅地化で徐々に人口増加を辿っていた杉並地区に、中央線はもうひとつの駅の必要を打診、1920年(大正9年)に中野と荻窪の中間となる馬橋に新たな駅を建設することが決定した。が、一部の住民からの「鉄道は金持ちだけのもの」という反対意見に馬橋は混乱し、この計画は頓挫してしまう。それを見た阿佐ヶ谷が今度は「是非ウチに」と駅誘致に名乗りを上げる。馬橋は既に駅予定地と青梅街道を結ぶ、言わば"メインストリート"を用意しており、また阿佐ヶ谷では荻窪

1922年(大正11年)、高円寺、西荻窪と共に開業した当時の阿佐ヶ谷駅

1924年(大正13年)の高円寺駅付近の様子。武蔵野の長閑な田園風景の中に徐々に住宅が増え始めている。中央の電線の下には関東大震災後に修復工事を受けた桃園川が流れる
側に近過ぎる/中野との距離が長い、との懸念で難航したが、最終的に政治力を駆使した阿佐ヶ谷が"阿佐ヶ谷と中野の中間地点にもうひとつ駅を作る"との案を出し、馬橋を挟んだ"隣の隣"である高円寺村へこの話を打診する。もちろん反対派も存在したが、もはや駅誘致が困難とみた一部の馬橋関係者もこの話に乗るような形で高円寺駅誘致側に回り、1922年(大正11年)、阿佐ヶ谷駅と高円寺駅、更にはこれを見た西荻窪もこの話に乗り、当初の候補であった馬橋の人々の落胆を横目に、杉並にいっぺんに3つの駅が開業するのである。
そして翌1923年(大正12年)、関東大震災が東京を襲う。.....被災者となった多くの下町の住民達が、鉄道の利便性を求めて武蔵野へとその住居を移す。こうして、現在の住宅街が出来上がる基盤が出来たのである。
上の写真が本来幻の馬橋駅にとってのメインストリートとなるはずだった馬橋通り。1965年(昭和40年)の住居表示改定によって地名としての馬橋は消滅したが、現在でも地域名としては通用している
左は1963年(昭和38年)の気象庁気象研究所、右は現在/高円寺北4丁目に位置する馬橋公園。敷地左下は馬橋小学校。写真上は早稲田通り、写真下方/中央線線路・桃園川を跨いで見える杉並学院高校(旧・菊華高校)と比べても、馬橋/高円寺に於いて最も大きな規模を誇る敷地なのが解る
1978年(昭和53年)の旧・気象庁気象研究所正門。終戦後の1946年(昭和21年)に旧・陸軍気象部馬橋分室が中央気象台研究部となり、翌年中央気象台気象研究所と改名、1956年(昭和31年)に気象庁気象研究所となった。1980年(昭和55年)に研究所自体が茨城県つくば市へと移転し、その後公園整備され1985年(昭和60年)に馬橋公園となった
旧・気象研究所跡地にある杉並区立馬橋公園
馬橋公園内は遊具/グラウンド/防災設備/植樹、そして人工河川など、広いスペースを有効に使った長閑な公園
さて、この現在は使われていない"馬橋"という呼び名、高円寺/阿佐ヶ谷地域では良く見かけるのだが、特に学校や公園などの名称に残されていることが多い。前述の馬橋通りにはズバリ"馬橋"という名の橋が桃園川に架かっているが、この地に古くから建つ"馬橋稲荷神社"がwebsite上でふたつの説をあげて推理している。
・青梅街道の南側(梅里2丁目/梅田ビルと志村ビルの間)に湧水があり、その流れが桃園川に合流し、そこに馬で一跨ぎするくらいの小さな橋があった
・1479年(文明11年)、太田道灌の軍勢が豊島氏との合戦の際、桃園川流域の沼地を通過するために自軍の馬を並べ、馬の背を橋代わりに沼地を渡った
馬橋稲荷神社ではこの内、後者の説を有力としている。.....もはや言い伝えに近い地名の由来を現代人が断定することは到底不可能だが、どちらも興味深く、納得の行くものではある。
だが、全国各地にある地名を調べて行くと、一般的に「馬の背を使って.....」のような由来があれば、それは"馬の背(馬之背)"と記されることが多く、このケースに当てはめるのならば"馬の背橋"となるのが一般的である。同時に馬が一跨ぎ、というサイズの橋に馬橋の名を付けるのも考えにくい。
むしろ、人だけでなく馬/馬車も通れる頑丈な橋で、且つ小さな道ではなく街道クラスの道が馬橋の命名に相応しく、同時にその名が通行者に本街道であることを知らしめる役割も果たす。つまり現在桃園川に架かる馬橋こそが地名の由来となった"馬も渡れる橋"で、南に大宮八幡宮/北に清戸道(現・目白通り)、という街道であった証しである、という説も存在する。そして、その道こそが鉄道誘致の際に整備した"馬橋通り"なのである。

桃園川に架かる馬橋跡。この道が馬橋通り
ともあれ、鎌倉時代末期創建と言われる(神社自体、正確な創建年は不明らしい)この地では由緒ある馬橋稲荷神社を中心に、馬橋の川跡を辿ってみることにする。
実は馬橋稲荷神社は「馬橋村に点在せる社祠/御嶽神社/白山神社/天神社/水神社を同村中央にある稲荷神社に合祀」という、複数の神社の集合体によって出来ている。そのためか、境内を中心に鳥居が7つ存在する。また正面の参道から2本目の鳥居には左右に2体の龍(昇龍/降龍)の浮き彫りが彫られている。.....個人的にはとても親近感を持つが、それだけこの地域に水関連の悩みが多かった歴史を物語っている。
その馬橋稲荷神社裏に、住宅街に飲み込まれた約300mほどの小さな暗渠道が残っている。背後に桃園川を見下ろす神社裏の小流、当然ながら桃園川の支流のひとつと考えて良い筈である。が、合流口付近はあまりにも痕跡がなく、本当に"ひっそりと"残る暗渠である。
桃園川/宮下橋。お宮の下、つまり馬橋稲荷神社のすぐ下、の意。写真中央のカーブ・ミラーの先に細い暗渠道がある
流路は直角に曲がり、馬橋稲荷神社の裏手を通る
住宅の間を縫うように走る流路
通行不可能に。この先は完全に流路が途絶える
住宅街と公共施設.....暗渠が消滅するには充分な要素が揃う
暗渠化された際の流路、つまり最終形は阿佐ヶ谷東公園と隣接する阿佐ヶ谷東保育園の敷地に突き当たる形で終わっており、この一角がやや高台であることから何らかの水源/池か沼が存在したことは容易に想像出来る。が、この流路沿いもかつては広大な沼地であり、本来どのようなルートだったのか、を探るヒントは残されていない。
が、この周辺の流れが桃園川/宮下橋へ注ぐ、もしかしたら馬橋の人々にとって重要な水源のひとつだったのかも知れない。
さて、次に紹介するのは前述の"馬橋の名の由来"としてもあげられている、青梅街道南側の池から桃園川へ注ぐ「馬が一跨ぎで渡れる」小流である。当然ながら住宅街に埋もれ、こちらも現在川の面影を探すのは非常に難しい。
問題のふたつのビル。.....確かに、青梅街道沿いに林立するビル郡の中では不自然にビル同士の間隔が空いている
右手マンションの1階部。広めの駐輪スペースとなっている
その奥は個人宅の庭となっているようで、中を覗くには忍びない。が、池のひとつでも存在出来そうな空間であることは確か
青梅街道を渡ると、突然現れる"あきら書房"の看板.....ここは"明さん"秘蔵の古書や小物などを扱う、御自宅を改造した立派な古本屋さん
車止めがなければ見落としそうな細い暗渠道が続く
見覚えのある金太郎の車止めが.....
小流はここで天保新堀用水・石橋用水路へと合流していた。このまま下流(写真奥)へと進み、桃園川本流へ注ぐ
.....旧・馬橋地区に残るふたつの暗渠。いずれも完全に住宅街に飲み込まれた"忘れられた川跡"であった。前者は神社の裏手を流れる小流であり、後者はもちろん地名の由来になりそうな橋が架かっていたとは思えないほどの小さな川筋である。言い換えれば、この杉並という武蔵野の、しかも桃園川流域が如何に小河川や池、沼などに溢れた場所だったのかを如実に物語っている。

既に消えてしまった街、馬橋。
だがその名は通称のみならず、この地に建つ由緒ある神社と、桃園川に架かる橋名として後世に受け継がれて行く。

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