第五章・桃園川complete
第五章・第九節/小沢川との切ない縁

.....さて、結果的には「completeは不可能」との無責任な結論(.....)に達してしまった桃園川だが、このコンテンツを借りて、最後にもうひとつだけ、どうしても紹介したい川がある。が、実はこの川は桃園川には注がない。とは言え、結論を先に記すと、この流れが注ぐ先は神田川である。桃園川が合流するよりも手前/上流寄りだが、そういう意味では相変わらず、オレ自身の行動範囲と水路で繋がる流れである。

三代将軍・家光が「桃の園」と名付ける以前、高円寺近辺は"小沢村"という名で呼ばれていたと第五章・第一節で記した。小沢村、つまり小さな沢があるという意味だが、この小沢そのものが桃園川のことなのだと思い込んでいた。
が、所謂"高円寺"よりも東、通称東高円寺から和田付近にある小さな暗渠道が、どうやら"小沢川"と呼ばれていた小流らしいことを知った。
.....和田から東高円寺の辺りには、実は個人的に縁のある場所がある.....いや、正確には"あった"が正しい。

オレと同い歳/オリンピック・ベイビーである高円寺陸橋を中心に、東西に青梅街道、南北に環七の交わる"高円寺陸橋下"交差点。通称では"東高円寺"と呼ばれるが、実際の住所は青梅街道より上(北)は高円寺南1丁目、左下は梅里1丁目、右下が和田3丁目となる
"東高円寺"は東京メトロ丸ノ内線の駅名として存在し、実際そういう名の住所はない。駅周辺の北は高円寺南1丁目、青梅街道を挟んで南は和田3丁目である。青梅街道の地下をJRとほぼ平行に走る丸ノ内線、JRが中野の次は高円寺なのに対し、直線上に新中野と新高円寺の両駅を持つが、環状七号線/青梅街道の交差点(高円寺陸橋)に近く、利用者も多い中間地点に東高円寺駅を持っている、というわけである。
さて、その環状七号線(以下環七)。
このno river, no lifeでも神田川笹塚支流の拠点となる和泉や玉川上水などが渡る、コンテンツにとって重要な環状道路。もちろん環状線が通るのだから地形が安定しており、見方を変えれば避けた分だけとても近くに谷筋があったりする可能性が高い、とも言える。
環七は正式名称を東京都道318号環状七号線といい、大田区の平和島から江戸川区の臨海町に至る。1927年(昭和2年)に計画され、1985年(昭和60年)の完成までに実に58年もかかった東京の巨大事業である。
.....そして、この道路は羽田空港/駒沢公園、戸田漕艇場付近を通る区間.....つまり、東京オリンピックにとって重要な区間があり、1964年(昭和39年)までにどうしてもその区間を開通させなくてはならず、同時に青梅街道は聖火リレーのコースでもあり、両道が交わる東高円寺近辺では用地買収などが急がれた。
1964年(昭和39年)、オリンピック開催を目前に控え、完成へ向けて工事が急ピッチで進む環七の様子(写真は野方付近)
こちらは1962年(昭和37年)、建設が始まった頃の高円寺陸橋
環七が走る東高円寺〜和田付近は、所謂"寺町"である。今でも環七の東側には多くの寺/墓地が密集し、有名なところではやくよけ阻師・堀之内妙法寺がある。
環状七号線、妙法寺付近。片側3車線の、都心の大動脈とも言える道路である
妙法寺。環七からやや東へ入った位置に建つ、元和年間(1600年代前半)創建で、堀之内厄除祖師とも呼ばれる
妙法寺脇にある老舗の"揚げまんじゅう"店、虎月堂。揚げたてがウマイ!マジでウマイ!!
宇田川沿いで生まれた都会っ子が何故?、と思われるだろうが、我が家の墓のある寺は、現在東京都八王子市にある。親戚一同は全国各地に散らばっているが、一応我が家が本家。
実は、我が家の墓は元々この東高円寺の寺町にあった。そしてその位置には今、環七が通っている。

.....察しの通り、オレの先祖の墓は、東京オリンピックに向けて急いで用地買収された寺に含まれ、1964年(昭和39年)に郊外/玉川上水の起点近くへと引越したのである。つまり、この環七の地下はオレの先祖が大地に帰った場所なのだ。
移転以前、一番近いところではオレの祖父(よって当然逢ったことはない)が眠っていた。オレが3〜4歳の頃、親戚の誰かの「綺麗な水が出た」と言う言葉が意味も解らないまま記憶されている。
....."縁"。
そう言ってしまえばそうなのだろうが、いったい自分にとって東京オリンピックとはいったい何なのか。そしてこの地を流れ、やがて村名となり、後に桃園にその役割を託した"小沢川"とはいったいどんな流れなのか。コイツを調べなきゃ、オレの桃園川completeは終わらない。

1963年(昭和38年)GHQによる航空写真、冒頭の現在の航空写真と同一アングルである。高円寺陸橋は完成に近づいているものの、その下(南側)にはまだ環七が開通しておらず、寺町の様子が残っているのが解る。そしてまさに、我が家の墓地のある寺はこの写真にまだ写っている、ということである
青梅街道沿い(というか下)を走る東京メトロ丸ノ内線、新高円寺駅付近
北側の商店街、ルック。このまま真っすぐ進めば桃園川を挟んでパルとなり、JRの高円寺駅南口と結ばれている
東京メトロ丸ノ内線・新高円寺駅入り口。この路線、当たり前だが青梅街道の下を丸ノ内線が走るため、青梅街道の上り/下り両側に駅入り口があり、新中野〜東高円寺〜新高円寺〜南阿佐ヶ谷と、どれも良く似た景色となる
JR高円寺駅から南へ真っすぐ、その名もズバリ"高南通り"を進むと、青梅街道に当たる位置が東京メトロ丸ノ内線・新高円寺駅付近である。高南通りは青梅街道を越えると田端/成宗.....じゃなかった(爆)成田東方面へ向かう五日市街道となり、善福寺川と出逢う。
丁度この位置に、例の"金太郎の車止め"がある細道が始まる場所がある。
付近には東京交通局杉並車庫(都バス)があり、その場所を避けて荒玉水道が走る、不思議な造りではある。.....当然疑うのは"湿地帯"の存在である。
五日市街道入口交差点付近、青梅街道・下り車線側に林立するビル群の中に、細い隙間が存在する
青梅街道脇から、唐突に始まる暗渠道。金太郎の車止めがここが水路跡であることを教えてくれる
橋があったであろう位置には多くのマンホールが
時折カーブを描く
流路が回り込む左手にあるのは堀之内斎場。.....この先を写真に撮るのは控えることにする。ちなみに昔このあたりのアパートに住んでいた友人がいるが、理由はズバリ「家賃が安いから」.....実際、新高円寺駅からそいつのアパートまでは墓地の間を縫うように行く、お世辞にも"楽しいルート"ではなかった。特に女性の独り暮らしなどは.....かなり勇気のいることに思える
流路が続く先は梅里1丁目にある真盛寺。1631年(寛永8年)に湯島にて開創し、1922年(大正11年)にこの地に移転。敷地内には弁天池もあり、小沢川の流れは一度ここに落ちたか、またはこの池からの流れを交えた状態で下流へ進んだ可能性もある
地図上、水路と一致する道の舗装はブロック式になっていた

真盛寺の北側に隣接する杉並区立梅里公園。小さいながらも自然の地形/起伏を利用した、遊具もある緑地スペースである。公園の奥には真盛寺敷地との境があるが、その先は寺内の池であるらしい。ただし前述の真盛寺弁天池ではなく、むしろこの梅里公園内の窪地スペースがかつての弁天池跡、とも考えられる。事実園内には井戸があり、小流の跡のようなオブジェが環七方面へ向けて造られている
真盛寺を抜けると、そこは環七、妙法寺入り口付近。青梅街道との交差点である案内があり、前方に高円寺陸橋が見えている
真盛寺を抜けた小沢川は環七にぶつかる。ちなみにここはかつての高円寺村字南小沢である。右手に妙法寺参道、左手には高円寺陸橋。.....その付近は、まさにオレの先祖が"寝ているところを起された"辺りだったのだ。

小沢村の小沢川は、どうやらオレの家系と密接な流れだったらしい。
環七を渡ると、いきなり豪快な暗渠道が現れる。手前に柵があるが、これは最近取り付けられたもの。おそらく、急激な段差があるために危険、と判断されたからだろう
古い階段を使って暗渠道へ降りると、路面舗装は暗渠化当時のままなのが解る。1964年(昭和39年)まで環七がなかったわけで、ここが橋跡だと考えることは出来ない。まるでここは高度経済成長の波/急激な宅地化、などの中で取り残されたようにも見える
右岸側の壁は明らかに暗渠化以前のもの
交差する道路の盛り上がり方から見て、ここには橋が架けられていたのだろう。この辺りは既に通称"東高円寺"となり、左手に進むと丸ノ内線・東高円寺駅がある
東高円寺駅の真上にあるのが蚕糸の森公園(和田3丁目)。ここは1911年(明治44年)に作られた農商務省原蚕種製造所、つまり蚕(カイコ)の糸の研究施設として作られた"蚕糸試験場"跡地である。1980年(昭和55年)までにその役目を終え、現在は筑波研究学園都市に移転、跡地が公園となった。東高円寺住民にとって憩いの場所である。
青梅街道沿い、丁度丸ノ内線東高円寺駅の真上にあたる位置にあるのが"蚕糸の森公園"
1941年(昭和16年)の蚕糸試験場正面。まだ地下鉄はなく、青梅街道には路面電車が走る
こちらは1975年(昭和50年)。前方は副都心・新宿、既に超高層ビルがいくつか建ち、時代の流れを感じさせる
蚕糸試験場時代の建築も一部残され、現在は倉庫として使われている

東高円寺一帯は中野-新中野、高円寺-新高円寺というJRとメトロの繋がりも持たないため、やや孤立した印象がある。"最寄り駅が遠い"という事情もあってか、前後の駅に比べてやや静かで懐かしい雰囲気の街、とも言える。
暗渠道を歩いている感覚では、右岸側が高台/崖線、左岸は更に低くなっている、つまり傾斜の途中をカーブしているような感覚である
左岸側にあるのは高南中学校。流路自体は学校敷地内を避けている印象だが、崖線(河川含む)を避けて学校がある、のかも知れない
流路脇にある和田中央公園。この辺りは戦後まで水田地帯

流路の形状を物語るアングル。水田地帯の真ん中を弧を描きながら流れる小沢.....それはきっと、春の小川のようだっただろう
流路は一般道へそのまま合流する
しばらく進むと、左手(写真中央・バイクの辺り)から右手へ、別の水路暗渠が横切るのが解る。実はこれは後年作られた水路で、ここで2本の水路が交わって写真右手へと流れる
真っすぐに進む暗渠。徐々に付近には商店が見え始める
突如、暗渠道は突き当たって終わる

写真中央左手の四角い埋め跡。小沢川暗渠が合流したのは神田川である
.....新高円寺の暗渠道スタートから約2km、小沢川が流れ込むのは神田川。丁度東京メトロ丸ノ内線の"支線"(中野坂上から荻窪へ向かうのが本線、方南町へ向かうこちらは支線)、中野富士見町駅付近である。終点の方南町は僅か300m先、神田川沿いに丸ノ内線中野車両基地があり、丁度この付近が善福寺川と神田川が交わる辺りである。
東京メトロ丸ノ内線・中野富士見町駅。中野坂上駅からの支線となる
東京メトロ・丸ノ内線、新宿以西の路線図。荻窪駅まで行くのが本線(かつての荻窪線)、中野坂上から方南町へ向かうのが分岐線(方南町支線)。丸ノ内線自体は1925年(大正14年)に新宿〜大塚間で開通、1961年(昭和36年)に新宿以西が本線/支線共に開通している。新宿通り〜青梅街道の地下を走り、終点でJR荻窪駅に連絡する本線に比べ、乗換駅を持たない方南町止まりの支線は少々マニアックな存在と言える
神田川/富士見橋下に流れ込む支流.....実はこれが小沢川であり、辿って来た暗渠からは30mほど上流寄りである。これは近年になって流路変更工事が行われたためで、この合流口の数十m手前までは同じ流路なのだ

1947年(昭和22年)GHQ撮影の中野富士見町駅付近。写真下の太い流れが神田川、左手から弧を描いて来た小沢川が写真中央で上方からやって来る別の水路と合流し、神田川合流直前で下流(右方向)に向けてやや進路変更しているのが解る。現在の合流口はそのすぐ下の富士見橋
丸ノ内線・中野車両基地。1961年(昭和36年)、広大な田園と流路改修前の神田川暗渠の地域を利用して作られた
高円寺にdragonlionを構えて1年半。明大前の自宅から神田川を渡り、善福寺川を横目に、小沢川を横切り、そして桃園川を歩く。

生まれ育った渋谷との大きな違いは神田川/善福寺川の存在である。渋谷は谷底の渋谷駅近辺目指して全ての小川達が流れ、その全てが暗渠化されており、全てが注ぐ渋谷川がようやくそこから開渠となる。
杉並には神田川/善福寺川という、渋谷川と同じクラスの暗渠化を免れた川があり、支流の小川達は一ケ所集中ではなく、その地形に合わせて様々な川/ポイントへと注ぎ込む。そして、桃園川/小沢川のような小川は同規模の宇田川と同じ運命を辿り、やはり地上から姿を消していた。

.....そしてこの小沢川を辿り、オリンピック・ベイビーはまたもその運命を感じずにはいられなかった。この小沢川の畔には、オレの先祖が眠っていた。そしてまたも東京オリンピックの直前/つまりオレが誕生する直前に、小沢川に蓋がされ、先祖は起こされて玉川上水の起点付近へ移されていた。
今日もオレは環七を便利に使い、先祖の眠っていた地を踏みしめ、小沢川の蓋の上を通ってdragonlionへ向かう。そのいずれも、オレが生まれる直前までの景色とは決定的に違う。
胸に去来するのはやはり「切ない」という想いだ。

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