第六章・熱中時間がくれたもの
第六章・第四節/立石橋と五石橋
前節で紹介した白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員、T原氏入魂の"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"。何度も書いているように、とにかく驚くほど貴重な渋谷の河川の写真や資料が集められ、まあ、世間で言うところの"マニア"に値するオレでさえ全く知らない事実/証拠などで溢れていた。
実際、白根記念渋谷区郷土博物館という所は普段何かしらの企画展を行っていて、例えば渋谷出身/在住の著名人/文化人を取り上げたり、現在活躍されている方の個展を開いたり.....なので基本的には1階のメイン・スペースは特別展示用。他には、オレのお気に入りの高野辰之コーナー、「ああ、先生はこの筆で春の小川を御書きになったのだろうか」とかブツブツ言いながらウロついているワケ(金髪/グラサン、でね)。
"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"/2008年(平成20年)9月30日〜12月21日、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館
で、正直に言っちゃえば、本当にこの"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"の開催は直前まで知らなくて、マネージャーがたまたまネット上で見つけて「明後日から始まるって!」くらいのタイミングで教えてくれた。んで更に、丁度その時我々NHK"熱中時間"のロケの真っ最中、と言うか既に後半。正直、あと数日知るのが/開催が遅かったら、あの番組の内容自体違うものになっていたかも知れない。
その大きな理由はもちろん"大正時代の河骨川"という名の付けられた1枚の写真の存在なのだが、個人的には一番の収穫(失礼)はT原氏の存在そのもの、だと思う。何故なら、もしもオレが通常通りプライベート時にひとりでこの特別展にやって来たら、T原さんにここまで色々と話が聞けることはなかった筈だからである。彼とて発起人/学芸員、もちろんフロアには出るだろうけど、こんなに、それも独占的に色々話すチャンスなんて絶対なかったに決まってる。いや、どっちにしても"ひとりで道を歩く"ことがメインの活動(.....)のオレが、受付で「あの〜、どなたかお詳しい方とお話が出来ませんでしょうか?」なんて言い出すワケがナイ。"熱中時間日記"に書いた通り、下調べ/取材オファーをしたディレクター・S水氏がT原氏が番組の"核"になる、と読み、事前報告なしでいきなりオレにぶつけて来る、という離れワザをやってのけたからに他ならないのである。
.....質問攻め(爆)
で、彼が掻き集めた貴重な写真達。これまで、オレは"宇田川の写真"なんてものを見たことがなかった。渋谷川や河骨川はどうにか入手出来たが、肝心の"生まれ故郷・宇田川"ってのを一度も見たことがない(そういう意味じゃ、番組ロケで宇田川合流口を"ナマで"見させて頂いたケド)。いったい何故、宇田川の写真は何処にも存在しないのか???。
.....ま、ちょっと考えてみれば簡単なこと。いったい誰が、汚れて臭うドブ川の写真なんか撮るのか、ということ。例えばオレもオフクロに
「オレが生まれる前に、例えば『マイ・ホームの写真を撮っとこう』とかさ、1枚くらい宇田川が写ってる写真ナイの?」
「あるわけないじゃないの。そんな汚い川、なんで写真に撮る必要があるのよ」
.....ゴモットモ。
「ついでに、まだカメラなんて高くて、フィルム代や現像のこと考えたら、そうそう意味もなく撮らないわよ」
.....これまたゴモットモ。
しかも、渋谷の川達がまだ美しい小川だった時代、つまり国木田独歩の武蔵野/高野辰之の春の小川の時代じゃあ、まだ各家庭にカメラなんかあるワケがない。フェリーチェ・ベアト(幕末の江戸を撮ったイギリス人)だって、この界隈じゃせいぜい十二社の滝(第三章・第七節参照)撮ったくらいだ。「撮る理由がない」というのは良く解る。だって、例えば「こんな綺麗な景色、写真に撮っておかなきゃ」と思うワケがない。だってそれは当時の日常のフツーの景色で、珍しくもなんともないものなんだから。ちなみに"大正時代の春の小川"は、元々お持ちだった方のご家族からの提供だそうだが、これだって別に田んぼと小川が主役なわけじゃなく、そこに写っている子供を撮った写真、ということなのだそう。.....う〜ん、こりゃ実際奇蹟だ。偶然写りこんだ"ロケーション"という不可抗力が、まさか100年近く後に、見ず知らずの金髪男を喜ばせることになるとは.....。

それを.....いったい何年、何十年かかったのか解らないけど、ここまで集めたT原氏はとんでもナイ人だ。当然暗渠内に入ったこともあり、しかも宇田川まで!.....もちろん立場ってのも影響するけど、これは実際"熱意"以外のなにものでもない。ぶっちゃけ、"暗渠熱中人"に相応しいのはこの人の方かも知れない。
同じ渋谷人として、疑問に思い走り始めた"同志"のような気がする
元より、東京オリンピック開催の1964年(昭和39年)、開会式から3日後に宇田川沿いで産声を上げ、渋谷川沿いの幼稚園に通い、河骨川流域に引越して20年間暮らし、初台川を見下ろす中学校へ通い、神田川笹塚支流沿いで39歳まで過ごした.....けどみ〜んなオリンピック目指して蓋しちゃったから、タッチの差でオレ川見てないよ〜チクショ〜.....と言ってたら同じ年に同じ場所で誕生したNHKが見せに連れてってくれた、というオレ(おお、なんか解ったような解んないような)の極めて個人的な事情に基づくコンテンツ、no river, no life始まって以来、最も個人的な内容の第六章・第三節の始まりです(長〜)。

まず、下の写真を御覧頂きたい。コレ、熱中時間"暗渠熱中人"on airに出て来る暗渠。ナレーションで「暗渠とは、川に蓋をして.....」と流れる時に映る、所謂"資料映像"である。こういうものはTV局にたくさんあって、報道とか馴染みのないものを紹介する時に流れるアレである。

.....実に暗渠らしい、解りやすい暗渠映像。地下水路を水が流れ、実際あまり大きな河川じゃないことがその流れから推測出来る。持ち主はもちろんNHK、仕入れて来たのは番組担当ディレクター、S水氏。
「お、暗渠映像!。さすがNHK、何でも持ってるなあ。ところでコレ、何処の暗渠なんだろ?」
「ああ、宇田川だって言ってましたよ」
「ええ!?」
.....担当ディレクターとの会話で明らかになったこの映像の正体。それはなんとオレの生家の眼の前を流れている宇田川そのもの。
確かに今回、オレはロケで渋谷川暗渠内に入り、そして宮益橋から宇田川の合流を見た。生まれて初めて、この眼で自分の家の前の川を眼にすることが出来た。その直前には、白根郷土博物館で前述の"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"で、それまで全く見たことのなかった宇田川の、それも様々なアングル/年代の写真を見ることが出来た。もしかしたら過去にも何かの機会に展示されたりしてたのだろうとは思うが、オレ自身は博物館でもTVでもweb上でも、水の流れている宇田川、いや"暗渠道以外の宇田川"を見たことがなかった。
が、この行程上オレが本当に"生まれて初めて見た宇田川"は、実はこの資料映像なのである。写真ではなく、いきなり暗渠内の映像。.....衝撃だった。決してショックとか可哀想とか言うんじゃない。ただただ感激していたのだ。確かに"変わり果てた姿"かも知れない。が、生きてるじゃん!。排水だか雨水だか解んないけど、水が流れてる川じゃん!!。宇田川じゃん!!!。
"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"本に掲載されている宇田川暗渠内の写真。暗渠の上から想像していたサイズ/雰囲気とほぼ一致する
オレが第一章・第一節で「生家のすぐ先には桜橋という橋があったそう」と記し、第四節ではそこに流れ込む宇田川・神山支流を追跡した。その水源は山手通り近くにあり、幼い頃に父親に手を引かれて散歩した場所だったことを約40年振りに想い出した。だが我が家が宇田川沿いに引越して来る3年前の1961年(昭和36年)の時点で「合流する川なんかなかった」とオフクロが言っており、神山町出身のオレにとって神山支流もまた永遠の謎、と思っていた。
宇田川、桜橋、そして神山支流。
.....この本で、オレはいっぺんに逢うことが出来た。

左は暗渠化直前、右は暗渠化工事中の宇田川・神山支流の姿。右の写真の下方が宇田川本流であり、右上にわずかに写っているのが桜橋である
これが現在の様子。写真手前の道路がやや盛り上がっているが、ここが桜橋の真上、宇田川は写真右手から左へ流れ、神山支流は正面奥からこの道路の向かって左側を流れ、宇田川本流へと流れ込んでいた。マンホールの位置などから、路側帯のホワイト・ラインの真下あたりではないだろうか
オレはおろか、親さえも見ていない神山支流。資料によると、神山支流の暗渠化は1958年(昭和33年)であった。理由は"安全と衛生面から".....昭和33年は東京タワーが出来、長嶋茂雄が巨人軍でデビューした年である。翌年には東京オリンピック開催が決まり、高度経済成長もピークに向かう。渋谷の街は激しい変貌を遂げている真っ最中だったのだろう。同時に、神山支流上流部は2009年(平成21年)現在、未だ暗渠化当時のまま一切手がつけられていないという状況に、如何に当時の日本/首都・東京そして渋谷が急速な変化を遂げていたかが解る。
この柵の奥が神山支流暗渠・上流部分。草がボウボウに生え、工事用の立ち入り禁止看板が建つ。1972年(昭和47年)まで8年間この地に暮らしたオレが、明らかにそれ以来変わっていないと断言出来るということは、恐らく1958年(昭和33年)以来、つまり既に50年間放置されているのだろう
.....さて、最後はようやくこの第六章・第三節のタイトルに迫る。本邦初公開。
まず、この場面から。

「昔はここにジャングル・ジムがあって.....」
「そのジャングル・ジムで遊んだりしました?」
「死ぬほど!(笑)」
on airでオレが宇田川暗渠遊歩道を辿って生家前へ着き、マンションの植え込みに腰掛け、子供の頃を振り返るシーンである。幼い頃のカワイイオレの写真の登場もあって、現在のオレを知る方々からはタイヘン評判が良い(笑)。
丁度このマンションが建ったのがオレが幼稚園くらいだったと記憶しているが、当時は地面から勢いを付けて飛び上がらなければ座れなかった植え込み、本人の背も伸びたが遊歩道自体が改修でやや底上げされ、40年の月日を経て今や自分の膝くらいの高さになってしまった。
.....続いて、この写真を見て頂きたい。

この写真は"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"本の、"コラム-記憶の中の橋-というページに掲載されている1枚である。他にも、宇田川・上原支流の二原橋や渋谷川の旧・流路の堀之内橋など、暗渠化直前/昭和30年代の橋達の勇姿が何点か載せられている。
そしてこの写真、御覧の通りオレが初めて眼にする、暗渠化以前の"流れる宇田川"なのである。しかも現在の神山町、とのこと、「そうかあ、コレがオレが見られなかった故郷の川なんだ」と、感激もひとしおだった。確かに暗渠直前、既にとても汚れているし、コンクリ護岸で春の小川どころじゃない。でも、コレがオレの故郷。そして、前述のon airの映像の通り、今でもこうして遊歩道の地下を流れている。五石橋という橋は知らないが、生家の前も、ジャングル・ジムの下も、ちゃんとこの川が生きているんだという証しになった1枚なのである。
食い入るように、時間も忘れてこの写真に見入っていた。そして、嬉しさや感動とは別の要素がオレの頭の中を支配し始めた。
"懐かしさ"。
その後、何度この本をめくっても、いつもこのページのこの写真のところで止まった。オレが生まれる5年前の、これが逢いたくても逢えなかった故郷の川なんだ、と。

ひと通り番組のロケが終わり、あとは編集とナレーションのみとなったのは初回地上波(NHK総合)放送当日から逆算して10日ほど前。ディレクターが寝る間を惜しんで編集作業へ入る。もはや全てを委ねられる相手なので心配無用。オレはリラックスし、連日この本を読みふけり、毎回そのページで時間を忘れて故郷の川に見入っていた。
.....違う。
その"懐かしさ"が疑問に変わったのは、on airまで1週間ほどとなったある日の夜。

.....写真正面に写っている2階建ての家は、オレの生家ではないのか?。

我が家のアルバムには生家の外観の写真がない。母親言わく「どうしたって被写体は生まれたばかりのアンタで、わざわざ家を撮ったりなんかする理由がない」.....確かにそうかも知れない。「残しておかなければ」という方向に向かうのは、成長/変化するものに限られる。
生まれてから8年間暮らした生家は、1972年(昭和47年)に河骨川方面(代々木八幡)に引越した直後に取り壊されている。それでも、幼いオレの記憶には、あくまでも小さなオレの目線でしかないが、ハッキリと残っている。
.....似ているのだ。
更に記憶を辿り、いくつかの条件を洗ってみる。

・写真奥と左側の家に記憶はない。が、中央左手の家は宇田川遊歩道と通りを結ぶ一方通行路にあり、オレの家の"裏"にも家があった。そしてそこはOさんという、材木屋さんであった。
.....今、この写真の中央に写る家の手前には、束ねられた材木が写っている。

・オレの生家の位置から見ると右奥に、大きな木があった。その奥に家はあったのだが、そこは玄関先の大きな木が印象的な家で、オレが暮らした8年間の間にアパートに建て替えられている。
.....写真の同じ位置には木が写っている。

・この写真のコメントは現神山町の宇田川の橋、である。実は、宇田川遊歩道が現在の神山町内を通っている区間は意外に短い。上流寄りの軍人橋の付近は富ヶ谷であり、下流は宇田川町となる。そして、同じ神山町の中でも、上流の桜橋から軍人橋にかけて(織田フィールド付近)、そして下流側の立石橋から深町橋にかけて(白洋舎/NHK付近)、宇田川遊歩道は緩やかな弧を描く。つまり、オレの知る限り神山町内で宇田川が真っすぐ進む区間は、オレの家の前付近、つまり桜橋と立石橋の間しかない。
.....この写真の宇田川/五石橋付近は、流路が真っすぐに見える。

が、数日かかってその疑問に気付いたオレは、その答を得ることは不可能だと思っていた。何故なら、オレの家の付近に五石橋という名の橋はなかった筈だからである。no river, no lifeのコンテンツ内に何度か登場するが、オレの生家の上流側にあった橋は前述の桜橋、下流側にあったのは立石橋という橋である。これは、過去に同じ白根郷土博物館で入手した"渋谷の橋"という本に載っており、他のいくつかの資料でも確かめたこと。つまり、この橋が五石橋という名である以上、そこにあるのはオレの家ではない、ということである。
"渋谷の橋"掲載図。ここには五石橋という橋は載っていない
次のオレの行動は、母親にこの写真を見せることだった。まずは何の先入観も持たせないため、本そのものではなく、スキャナーでPCに取り込んだ状態のものを、写真下のコメントが見えない状態で見せた。
「ねえねえ、この風景に見覚えって、ない?」
「.....何これ?」
「いや、単純にこれ見て、見覚えがあるか聞きたいだけ」
「ふーん.....」
数十秒間、母親はこの写真を見つめ、そして言った。
「.....これ、ウチ?」
70歳をとうに過ぎた母親に、そうそう一気にぶつけるのは得策じゃない。オレはゆっくりと質問を投げかける。
「ウチの裏にあった家、覚えてる?」
「ああ.....確か、Oさんだっけ?」
「そう。Oさんのとこって、何屋さんだった?」
「Oさんは.....あ、材木屋さんだ!」
「そうだよね。じゃあ、ウチの先(渋谷駅寄り/つまり上流方面)の隅の家、覚えてるかな?」
「ああ、大きな木のあったところね.....この写真にもあるねえ.....」
我が家がこの地へ引越して来たのは1961年(昭和36年)、宇田川暗渠化の前年である。最後の質問。
「ウチって、いつからあそこに建ってたのか知ってる?」
「さあ.....少なくとも前の年(1960年/昭和35年)にはあったけどね。多分まだ築数年だったとは思うけど」
この写真が撮られた1959年(昭和34年)の時点で生家が新築ではなかったことを確認したオレは、ここでこの写真のコメントの文章を見せ、オレ自身が40年前の記憶を辿り、この景色と中央の建物について考えていることを全て話した。
「うん、そうよ。窓の数とか位置とか、これウチよ!」
だが、オレ達親子の確信は、この"五石橋"という名の橋の存在により否定されてしまう。オフィシャルな本、それもT原さんのようなスペシャリストが監修を務める本に書かれている以上、これはどうしようもないことなのである。これが本当に我が家なのであれば、その位置にあった橋は、立石橋でなければいけないのだ。

1947年(昭和22年)、GHQ撮影による終戦後の宇田川/現・神山町区間内の航空写真。御覧のとおり、現在の神山町内で宇田川が真っすぐ流れているのは写真中央部分、つまりオレの生家を挟んだ桜橋〜立石橋間しかない
.....部屋に戻り、デスクトップの写真を見ながら溜息をつく。
「立石橋と五石橋か.....」
次の瞬間、オレの頭の中には急速に新たな疑問がわき上がって来た。
「立と五って.....似てるな」
急いでメモとペンを取り出し、書いてみる。.....もうお気づきだろうが、乱暴に書けば書くほど、立と五は似て見える。
立石と五石.....誰かが書き間違えた可能性はないのか?。

最後の賭けに出る。それは、その事実を裏付ける証人を得ること。そしてその相手は、T原氏しかいない。電話をかける。ロケではお世話になりましたと手短な挨拶を済ませ、早速本題に入る。
「本に載ってる、五石橋の写真のことなんですが.....」
状況説明と、オレが思っていること/推理したことを全て話す。彼は「はい、はい、」と相づちを打ちながら聞いていた。そして「実際のところ、どうなんですかね?」という最後の問いかけのあと、T原氏はひと呼吸置き、話してくれた。
「.....実はですね、加瀬さんの推理のとおり、実は五石橋と立石橋は同じ橋なんですよ」
.....鳥肌が立った。
ここでは細かいことは書かないが、簡単に言うと、まずこの写真は1959年(昭和34年)にこの橋の改修工事が終わった際の立石橋の、渋谷区役所土木課撮影によるもの。そして、設計図には立石橋とあるが、立と五という字を工事関係者の間で手違いが生じ、この橋のプレートは五石橋となってしまった。それを機に、この橋を暗渠化工事までの4年間は"五石橋"とした、ということだったのである。
宇田川遊歩道/立石橋、いや五石橋上にて。1歳と44歳、右手と右足を同時に出すことにかけてはとても下手になっているらしい(.....)
"熱中時間"ロケにて。カメラに向かい、上の写真のロケーションについて説明中
そして、オレは確かな証人を得て、この推理に終止符を打つことが出来た。これまでただの1枚も存在しなかった生家の外観の写真が、水の流れる宇田川と共に写った写真がそこにあるのだ。
「.....ありがとう、T原さん。オレ、自分の生まれた家は記憶の中だけだと思ってた。それが、宇田川沿いに建っている姿を見られるなんて」
「いえいえ.....私も嬉しいですよ。まさか、あれが加瀬さんの家だったとは.....」
丁重にお礼を言い、電話を切ったオレはディレクターに連絡。
「.....というワケで、きっともう手遅れなんだろうけど、報告しておきますよ」
「いや、その写真是非使います。宇田川と加瀬さんの家.....素晴らしい!」
流石にナレーションは間に合わなかったが、こうしてon airには「加瀬さんは、この宇田川沿いで生まれ育ちました」のナレーションと共に、オレの生家と暗渠化以前の宇田川の姿が登場することとなったのである。
2008年(平成20年)12月21日、"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"最終日、白根郷土博物館にて。T原さんをはじめとして職員の皆さんから、"暗渠熱中人"on air後に「番組を観ました」という来館者の方が大勢来られた、と伺った(感謝)。.....T原さん、「今度は◯◯をやりたい」ってさ.....お楽しみに!?
.....謎が解け、母親に報告。やっぱりこれは、オレ達が暮らした家だったよ、と。この時点でまだ番組のことは何も伝えていない(放送当日まで黙ってた/笑)ので、いったいどうやって調べたのかと聞かれたが、役所の知り合いに聞いた、と答えた(ま、事実だ!)。

.....この夜、懐かしさで親子ふたりで泣いたよ。
第一章・第一節で書いた通りなのだが、我が家はオレの両親の離婚によってこの家を捨てざるを得なかった。そして彼女は彼女で、まだ幼いオレを必死の想いで育ててくれたのだと思う。オレはオレで.....進学もせず、結局は音楽の道を進み、40歳過ぎてまだ金髪(苦笑)。歴史的に見ればこの家に暮らした期間はそう長いものではないが、もちろんオレ達親子にとっては想い出のたくさん詰まった家。そして、記憶にはあっても、写真などの記録の残っていなかった家。そして、オレを育んでくれた宇田川遊歩道の、本当の姿。絶対に手に入らないと思っていた、そして追い求めて来たその姿が、40年の歳月を経て、こうして手元にやって来たのだ。
唯一、我が生家の2階の窓から宇田川暗渠上のオレ(1歳)を撮った写真。1965年(昭和40年)、まだ暗渠道の舗装はされておらず、土と砂利が生々しい。手前には護岸の淵部分が路上に顔を出している
.....暗渠そのものに興味を持ってこのコンテンツを訪れてくれた方には、きっとつまらない個人的な話だと思う。が、"no river, no life"という、この哀れなオリンピック・ベイビーの暴走を第一章・第一節から見守ってくれた方には、この1枚の写真の持つ意味がきっと解って頂けると思う。

"熱中時間"がくれたもの。
それはあまりにも大きく、そして尊かった。"NHK"という、同じ東京オリンピックの年に同じ東京オリンピック開催地で誕生した、オレの"幼馴染み"からのプレゼント。
渋谷川暗渠内へ。宇田川の合流口をこの眼で見た。そして、愛する歌"春の小川"を歌った。T原氏という"先輩の後輩"(笑)と出逢い、知らなかった/知りたかった様々な情報を得た。そして、彼はオレに、記憶の彼方にしかなかった生家の姿を見せてくれた。

また、故郷・渋谷が好きになった。


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