第八章"もうひとつの「春の小川」"
第八章・第一節・春の小川の数奇な運命
春の小川はさらさらいくよ
岸のすみれやれんげの花に
姿優しく色美しく
咲けよ咲けよと囁きながら
文部省唱歌・"春の小川"という曲が1912年(大正元年)に国文学者・高野辰之氏の筆によって世に誕生した、というハナシはこのno river, no lifeというコンテンツの中でしつこいほど触れて来た。で、その歌詞に登場する長閑な景色の舞台は、実は今から90年ほど前の東京都渋谷区代々木の姿である、ということも、意外性も含めて広く知られたことでもある。更に何でオレがそんなに春の小川に固執するのかというと、オレはその景色のド真ん中で生まれ育ったのに川を見たことなんかなく、どうやらオレが生まれる直前にその川は"埋めたんじゃなく「蓋をされた」"ということを後に知り、そのタイミングの悪さと風景/暮らしの変貌ぶりに驚いたという理由があることもしつこ〜くお伝えして来た。そのクソ真面目さ(苦)は時折メディアの眼にもとまり、おかげ様でTV/ラジオ/雑誌、そして様々なウェブサイトなどでもご紹介頂いた。中でも暗渠となった元・春の小川に潜入させて頂いたTV番組は高視聴率を記録し、番組史上初の10回on air、という新記録を達成。おかげ様で加瀬コムも本業が何なのか解らなくなるほど(爆)のヒット件数となった。
文部省唱歌"春の小川"のモデルと言われる、大正時代の河骨川の姿。これを見て99年前の東京都渋谷区代々木、と解る人はまずいない筈
なので、春の小川っちゅうのがどのような川なのか、はこのコンテンツ内に事細かく書かれているのでまずそちらを御覧頂きたいのだが、簡単に言えば当時高野辰之氏の御自宅が現在の代々木3丁目にあり、娘さんの弘子さんを連れて良く散歩していたのが代々木練兵場(現・代々木公園)の西側の谷を流れる河骨川という小川沿いだった、というのがそのルーツである。もちろん高野氏が自らの故郷である長野県の風景を想い出したりしたこともあるかも知れないが、後年弘子さん御自身の口から「春の小川は河骨川沿いの景色が元になっている」ことが明らかにされており、多くの人々が田舎の風景だと思って歌っていたこの曲は意外にも東京のド真ん中が舞台だった、それも決して大昔のことではないことを知ることとなったのである。
渋谷区代々木3丁目に現存する高野邸。大正時代、このあたりはまだ国木田独歩の"武蔵野"の世界、原生林に囲まれた谷地だった
在りし日の高野辰之一家。高野氏は養女である弘子さんを連れ、緑豊かな土地・代々木を散歩するのが日課だったという
こちらは河骨川中流域/代々木5丁目65番地に建つ、春の小川記念碑。暗渠化直前最後の流路は、小田急線参宮橋〜代々木八幡駅間の線路沿いとなり、"春の小川"誕生は小田急線開通の17年ほど前となる
さて、代々木3丁目3番地の高野邸。1909年(明治42年)にこの地へ移り住んだ高野一家、眼の前に代々木練兵場(当時)を望み、代々木山谷地区の自宅の左右へと伸びる道を右方向へ進路を取り、河骨川沿いに富ヶ谷方面へと進む散歩コースを好んだ。山之内邸から流れ出た小さな流路は代々木の田畑を潤し、小さな谷地を南へ向けて進み、やがて宇田川と合流、その後渋谷川〜古川と繋がり、海へと注いだ。そしてこの小川沿いでかの名曲"春の小川"は誕生したのである。
.....ということを様々な検証で理解し、実際にこの眼で/足で確かめるようになって、ふとある時、ひとつの疑問に行きついた。
「他にも小川はあったのにな.....」
もちろん当時、高野邸からの風景がどうだったのかなんてことは21世紀の現在の代々木では想像不可能である。が、21世紀の現代から"データ"という観念から見た際、彼らの散歩コースの検証は意外に奥が深いようなのだ。
何故なら、彼らの自宅からは地形的にも楽な方向に別の、しかも河骨川と同等のサイズの小川が存在していたことが解ったのである。
1947年(昭和22年)、GHQによる航空写真に見る代々木山谷地区。高野邸の上方(北)から右(東)方向へ向け、黒い筋/水路がハッキリと写っている
第二章"春の小川に逢いたい"では西参道を現在の小田急線・参宮橋駅方面へと向って行くコースを取ってシミュレーションしてみたが、このコースでは地形的に高野親子は家を出てから一旦"坂を登る"という作業を必要とする。それに比べ、高野邸左手の水路方面へ向うのには逆に楽な筈の"下り坂"が待ち受けているのである。にも関わらず(大きなお世話だが/笑)、高野親子の散歩コースが河骨川方面だったのには、当然何か理由が存在したに違いない。例えば
・河骨川方面は高野氏の通勤路と逆方向である
大正時代当時、この付近には現在のように小田急線や京王線は走っておらず、最も近い国鉄の代々木駅が開業したのが1906年(明治39年)。当然高野氏もこの駅を頻繁に利用しただろう。また、代々木練兵場の最寄り駅ともなることからある程度の繁華街/商店街としても栄え、駅付近を多くの軍人達が行き来していたと考えられる。となれば、娘を連れた休日の散歩コースに選ばない、という理由に充分に成り得る。同時に"息抜き"という意味でも、歩き慣れた通勤路よりは理想的だったのかも知れない。
・目当てが存在する
河骨川方面には高野氏自身が好む風景があったとか、馴染みの煙草屋が存在したとか、河骨川方面には何かしら魅力的な目的地があったのかも知れない。また、山谷地形であることから、親子が"ゴール地点"とする場所からの"眺め"は極めて重要だったと思われる。であれば、人の多い代々木駅側よりもより河骨川側が好まれた理由は、現存の写真などからも推測出来ると言えるだろう。
高野邸から右手へ、つまり河骨川方面へ向う道。そのあたりは明治神宮の"西参道"にあたる
こちらは高野邸から見て左手。JR代々木駅方面へ向け、地形は谷底へと向う
1938年(昭和13年)、陸軍撮影による貴重な代々木練兵場の航空写真。半分から右上の濃い色の部分が明治神宮(1920年/大正9年創建)、左下半分が練兵場、敗戦後に練兵場は米軍将校の居住区"ワシントン・ハイツ"となり、1964年(昭和39年)開催の東京オリンピック開催に併せて日本に返還され、現在は代々木公園となっている。東西に谷地がある小高い丘地形で、西側の谷には"春の小川"のモデルである河骨川が流れ、支流の宇田川へ注ぎ、渋谷駅付近の最も低い位置で渋谷川に合流していた
1914年(大正3年)、代々木練兵場に隣立する皇室所有地、南豊島世伝御領地に明治天皇を記念した明治神宮の建設が決定。これにより代々木では地価が異常に高騰、翌1915年(大正4年)から宅地造成が開始され、1917年(大正6年)には環状5号線/明治通りの開通が決まり、更なる用地買収が繰り広げられた。この頃、荒れた原野だった代々木は急速に変化を求められていたのである。
南豊島世伝御領地、つまり現在の明治神宮の造成前の姿である。このあたり一帯は明治時代までは代々木の広大な荒れた原野だった
線路と電車は明治末期、JRの前身の国鉄の更に前身、日本鉄道。区間は原宿駅〜渋谷駅間である.....つまり、右側に写る広大な原野は現在の代々木公園。こういった敷地があったからこそ、練兵場建設が成り立ったのである
左は1936年(昭和11年)陸軍撮影による代々木練兵場、右が現在、つまり明治神宮/代々木公園の姿。1945年(昭和20年)の敗戦時に米軍将校キャンプ"ワシントン・ハイツ"となり、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催時に日本に返還され、その後造成され代々木公園となった。練兵場当時は当然ながら滑走路などを含む"広く平らな敷地"だったことが良く解る
.....大正時代、正に宅地化で造成中の代々木の風景を描いた画家が存在する。岸田劉生(きしだりゅうせい/1891年/明治24年〜1929年/昭和4年)である。高野辰之同様、渋谷/代々木に暮らした文化人のひとりとして有名な岸田氏の作品で一際我々"春の小川ファン"に印象深いのが通称"切通之写生"、またの名を"道路と土手と塀"という作品である。
38歳の若さでこの世を去った画家、岸田劉生。大正時代に暮らした代々木の風景を独特の画風で表現した
左が岸田氏の描いた有名な1枚、"切通之写生"、右は渋谷区代々木4丁目19番地、つまりこの絵のモデルとなった場所の現在の姿である。道路脇には"切通しの坂"記念碑が建つ。このあたりは河骨川水源の池のあった山内邸に近く、3丁目の高野邸からも徒歩数分の距離である
岸田作品のひとつ"代々木附近の赤土風景"。造成中で剥き出しの赤土と白い塀のコントラスト、そして何より"代々木九十九谷"と言われた山谷地区の地形が興味深い
これも代々木の岸田氏自宅付近の描写だと思われる作品。原野にポツンと建った小屋のような邸宅.....これが僅か90数年前の渋谷区代々木のリアルなのである
これは1910年(明治43年)12月19日の代々木練兵場に於ける、日本初の"飛行"場面。現在の代々木公園であるここは、日本の航空史上、非常に重要な場所だった
1935年(昭和10年)の国鉄代々木駅の写真。当時は代々木練兵場への最寄り駅として栄えた
こちらは東京オリンピック開催を目前に控えた1964年(昭和39年)の代々木駅前。これ以降、代々木駅周辺は"専門学校と予備校の街"として栄えて行くことになる
.....そして現在。NTTドコモタワーを背後に従え、国鉄は民営化でJRとなり、駅舎も近代的な造りとなった。現在はJR山手線、中央総武線、都営地下鉄大江戸線が停車する
.....さて、いずれにしても高野辰之という人は自宅から徒歩圏内の代々木山谷地区を流れる小川のほとりに立ち、"春の小川"という作品を生み出したのである。これにより、少なくともオレ〜敗戦後の復興と高度経済成長、そして東京オリンピック開催により地上から姿を消した小川の存在を知らずに過ごし、後年事実を知った際にその経緯と現状に打ちのめされた中年男〜の人生にこの小川が多大なる影響を与えたことは間違いない。そして、そのモデルとして本来ならば地区の人々以外はその名を知る筈もないような小さな川が全国区の知名度となった。それが河骨川であり、支流の宇田川、そして渋谷川もまたしかりである。

運命とは皮肉なものである。
高野家の近くを流れながら、メインの散歩コースから外れていたために後世に語り継がれることもない小川の存在。が、高野氏の"作詞"そのものに影響を及ぼしたのは、きっと明治後期の代々木山谷全体の風景であり、シチュエーションだった筈である。その中でクローズアップされた小川と、されなかった小川。でもきっと、この小川も"春の小川"のモデルのひとつ、と言って良い筈である。
こうして渋谷の歴史を辿って行くことで、通常では知り得ない筈の知識を得ることが出来るようになったのも嬉しいことだ。この"もうひとつの「春の小川」"、現存中は"代々木川"と呼ばれていたらしい。.....なるほど、位置的にも存在的にも、その名に相応しい小川だ。むしろ、"春の小川"のモデルとしてはこっちの方が自然にさえ感じる。
Google地図を用いた等高線図に見る高野邸付近。明治神宮の丘を挟み、左手(西)に河骨川の谷、右手(東)に代々木川の谷、という地形が良く解る。高野邸はその両河川の水源地の中央付近に居を構えていた、と言える
さて、この代々木川にいち早く注目した人物が既に存在する。'08年秋に白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に於いて「春の小川」の流れた街・渋谷展を開催した学芸員であり、NHKの番組取材時に知り合ったこの"渋谷の川バカ"同士(笑)、そう、T原氏である。
彼はこの展示の際に制作したガイドブックの中で"一つの川に刻まれた歴史"として代々木川を大きく取り上げていた。その理由を訊ねると「渋谷という街の歴史の中で、中小河川の暗渠化は下水道整備との関係が非常に深く、この川は他に比べ早い時期に計画が実行されていたのが興味深かった」とのことだった。なるほど、オレの取り上げた小川達が戦後を経て東京オリンピック開催という、日本の国際舞台への復帰時に暗渠化されたものがメインなのに対し、代々木川はもっと早い段階から渋谷の下水道事業の対象として扱われていた、ということ。言うなれば、渋谷の小川達の行く末を一足早く実現していた川、ということなのだろう。
2008年(平成20年)秋に、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に於いて行われた"「春の小川」の流れた街・渋谷特別展"開催時に販売されたガイド・ブック。この時は丁度NHK"熱中時間・暗渠熱中人"のロケで伺い、この展示を企画した学芸員のT原氏と意気投合した
こちらが学芸員のT原氏。年齢はオリンピック・ベイビーよりちょっと若いけど、渋谷の河川に対する想いは同じ、知識は彼の方が遥か〜に上!
というわけで、今回取り上げるのは、恐らく"春の小川"のモデルとなった風景の中に存在した筈なのに、河骨川に比べて語られることの少ない、この通称"代々木川"と呼ばれた小川である。この川の最上流水源は新宿、いや当時の角筈村を流れる玉川上水からの取水であったらしい。まずはそこへ行ってみよう。
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