第七章・"渋谷・朝霧ヶ瀧伝説"
第七章・第二節/渋谷南部の地形
.....で、まず愚かな現代人であるオレの最初の作業は"ググる"である。んで、皆さんもやってみてお解りだと思うが、この伝説に関してものの見事になん〜〜〜にも出て来ない。だいたい、朝霧と撫子姫ってのがいない。ついでに、円証寺っちゅう寺がない。せいぜい"渋谷長者"で南青山(当該地域より北方面)の"長者丸商店街"がヒットするくらい。渋谷が入り江だった時代の"長者丸"という船名が由来なのか、渋谷長者本人が由来なのかは解らない。と、もっと東寄りの笄川地域にはこりゃまた別の渋谷長者にまつわる伝説が存在する。
白金(お隣の港区)長者の息子と渋谷長者の娘が恋をし、ふたりは笄橋のたもとで度々落ち合い、姫(渋谷長者の娘)が走って彼に逢いに走った坂道が"姫下坂"と呼ばれ.....
違う!。そんな目出たいハナシじゃない。もっと純粋で切なくて不憫で(コラコラ.....)、だいたい渋谷長者っつったって、いったい歴史上何人何十人何百人いるんだかも解らない。ってか、もしその娘ってのが撫子だったら.....いやいや、そんな筈はない!。彼女はそんな娘じゃないんだあ〜!(.....)。
.....というワケで早速壁にブチ当たったオレの次の行動は.....ムフフ。コレはもう必殺技。オレ、その話を何処で知ったのかっつーと、白根記念渋谷区郷土博物館。ってことは、な〜んだ、学芸員のT原ちゃんに聞けばイイんだ!。初めからそうすりゃ良かった。ねえねえ、コレって何処なの?
「.....解らないんですよ」
「.....。」
ま、この人はオレが知る限り相当な"慎重派"である。それもその筈、何しろ確たる確証がない限り、この立場の人間がうかつなこと言っちゃダメだし、またそういうしっかりとした人物だからこそ、そのポジションにいらっしゃるワケで、オレみたいに何の確証もないまま熱意だけで突っ走ったりする.....こともあるかも知んないけど、少なくとも憶測では発言しない。その彼が言うんだから、こりゃホントに解らないんだろう。
「本当に"江戸砂子"に書いてあることが全てで、多分今の円山町あたりじゃないか、ってことしか解らない。何しろ、江戸時代には既に伝説だった話、ってことですから.....」
江戸時代に既に伝説?.....そりゃ一体いつ頃なんだろう。
そもそも江戸時代とは1603年(慶長8年)から1868年(明治元年)までの"徳川政権"下にある265年間のことである。従って織田信長だの豊臣秀吉だのはそれ以前の安土桃山時代となり、更に遡れば戦国時代や鎌倉/平安時代。つまり、江戸時代ってのは今から142〜407年前の間、ということになる。う〜ん、なんか現代人は明治以前の"丁髷時代"をまとめて江戸時代って括ってる悪いクセがあるな.....。
で、この朝霧ヶ瀧伝説は「江戸時代には既に伝説だった」という但しが付いてる。つまり、どう見積もっても500年以上は前、ということになる。う〜ん、ナルホド.....。
「.....ホントは知ってんじゃないの?」
「知りませんってば!」
とりあえず優しいT原氏、買うなんて恐ろしくて出来そうもない金額の"江戸砂子"を見せてくれた。おお、書いてある書いてある。
江戸砂子
・朝霧が滝
渋谷。むかし此里に渋谷宗順と云長者あり。撫子姫といふむすめをもてり。容貌すぐれたり。春のころ円證寺のさくらを詠むとて父母いざなふ。かの寺に朝霧と云了髻(かむろ)あり。姫を見て恋そめしに、おもひとげず、此滝つぼに身をしてたりと云。
ふ〜ん、円証寺は"円證寺"と書くのが正しいのか。とりあえずググると.....奈良に同じ名前のお寺があるな。創建は.....寛平年間、890年頃!?.....じゃあ千年以上前ってことか。金沢(石川県)にもあるみたいだけど、何か関係あるのかな。んで、続いて白根のパネルにはなかった、こんな記述も。
・困頁(かむろ)山
右かたはらに小高き岡あり。困頁山と云。これかふろ塚也。そのひがしのかたに円證寺の旧跡あり。
かむろ山、かむろ塚.....寺はその東方向.....うん、こりゃ多少ヒントになるかも知れない。ま、案ずるより産むが易し、急がば回れ、とにかく行ってみよう。ヘタすりゃ千年以上前の、もちろん誰も知らない伝説の場所、朝霧ヶ瀧。こりゃ渋谷人として探さなきゃ、朝霧と撫子に申し訳ない(.....)。
これまで、no river, no lifeでは多くの渋谷の河川/歴史について調べて来た。そしてそれは、当然ながらオレ個人の誕生/人生と関わるものばかり。神山町の生まれた家と眼の前の遊歩道が宇田川、通った幼稚園は渋谷川沿い。父と散歩していた高台は宇田川の水源、小学校は隣に暮らした国木田独歩にして"武蔵野"と呼ばれた場所で、引越先は"春の小川"こと河骨川。中学校は初台川を見下ろし、次の引越先/幡ヶ谷には神田川の支流。
そして、その全てがオレの生まれる3日前までに隠され、オレはただ"道"の上を歩き、渋谷を出るまでそのことに気づかなかったオリンピック・ベイビー。

オレがこれまで紹介した"渋谷"は、渋谷区の大体上半分。つまり渋谷区の北側にオレの生活圏が密集していることは確かであり、これまではその地域を主に紹介して来たワケだ。それは代々木を水源に渋谷駅付近に向って流れ、渋谷川に合流する河骨川、初台川、宇田川といった支流達沿いに暮らして来たからに他ならない。では渋谷の他の地域はどうなのかというと、もちろん39年間も渋谷区民だったワケだから、さすがに行ったことのない町はない。
ここであらためて渋谷区全体の地図を確認しておこう。

さて、今回は渋谷の"下"、つまり南側を見て行く必要がありそうだ。地域的にまず"現在の円山町のあたり"という記述があるが、そこから"困頁山"を西に見るとなると、恐らく以下の地区が候補となる。

 ・円山町
 ・神泉町
 ・道玄坂
 ・南平台町
 ・桜ヶ丘町
 ・鉢山町
 ・鴬谷町
 ・猿楽町
 ・代官山町


.....なんて数だ(涙)。でも、実はこの辺は1970年(昭和45年)の住居表示法施行の際に"単独町"として〜丁目、という区切りを免れた一帯で、小さな町が密集しているエリア。これ全部合わせても代々木と同じくらい。.....いや、やっぱ広いわ(爆)。で、ポイントは困頁山という地形と、何より"滝"。つまり、そこには河川がなくてはならない。が、見ての通り町名には山あり谷あり丘あり。.....ただ問題は、滝壷に落ちて絶命するほどの滝が、果たしてこの緩やかな渋谷に存在し得たのか、という疑問。
が、ここでこの3年間のオレ"の暴走記録"が役に立つね!。そうだ、十二社の熊野滝があった。

まあ、近代渋谷に暮らして来たオリンピック・ベイビーにとって、我が街に"滝"って言われても当然ピンと来ない。だって、一般的に滝ってのは華厳の滝とか白糸の滝とか、とにかくモノ凄い落差を水が落ちて来るもの。当然、いくら"山谷"なんて地名が残っててもそりゃスケールが違い過ぎる。山を高台/谷を坂下と認識し続けて来たオレにとって、そこに流れる小河川に起きるのはせいぜい"段差"程度でしかない。それを一変させてくれたのがこの写真。
フェリーチェ・ベアト撮影による十二社・熊野滝。恐らく明治初期のものと思われる。少なくともこのサイズが"身投げ"が可能な高さ/滝壷の深さとは思わないが、現在の十二社の坂道による高低差と、かつての地形のイメージ・ギャップを埋めるには丁度良い
ベアトは基本的に幕末の"江戸"を撮ったワケだから、逆に当時こんな武蔵野方面の田舎の風景をよくぞ残してくれた、と思う。もちろん広重の絵もこうして比べれば違和感なく見られるのだが、やっぱり写真の真実味は凄いと思っちゃうのが現代人。
にしても、こうして現実に"渋谷の滝"を見せられると俄然やる気が出て来るね!。今回ターゲットになる付近は何しろ坂だらけ、自転車泣かせのアップ・ダウン・エリアだ。逆に、どうやったら可能な限り坂を登らずに目的地に着けるかはメチャ詳しい(笑)。"眼に見えない河川事情"にも少々詳しくなった現在、それが何て言う川/水路がある谷なのかを結びつけられるようになった現在、今度は飽きるほど山と谷を行き来するルートを歩かにゃならんワケだ。ハッハッハ.....キツそうだな(.....)。
さて、渋谷の下/南側。もちろん、小学校の同級生達が大勢いたし、暮らした地域から渋谷駅を挟んで"反対側"にあたる方向にも縁はたくさんある。何しろ、神山町の宇田川沿いに生家があったのは事実だが、オレが「オギャー!」と足から生まれた(オフクロ、ごめん)病院があったのはこっち側なのである。
.....とりあえず45年振りに行ってみっか!。
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