第七章・"渋谷・朝霧ヶ瀧伝説"
第七章・第六節/駒場野と空川
何故三田上水が環六/山手通り沿いを流れて来ているのか、というのは人工水路を作る際の鉄則である"起伏の少ない台地を選ぶ"という土地事情によるもの。当然ながら、一旦低いところへ向ってしまうとその先の高地へ戻ることが出来ないからだ。渋谷区笹塚で分水された流路は代々木の谷をどうにか避け、目黒方面へ向う最も平坦な高台のルートを選んだ。そしてそこが後の山手通りのルートにも丁度良かった、というワケ。そしてもうひとつ、このラインが渋谷と目黒の区界ともなった。何故なら地図上で言うと三田上水/山手通りの高台を中心として東が宇田川や渋谷川の緩やかな谷であるのに対し、東側には急激な目黒川の谷があるからなのだ。
Google Earth地形図に見る渋谷と目黒の区界付近。右(東)の黒いラインが渋谷川、山手通り西側のラインが目黒川である。現在の渋谷川は渋谷駅より上流と宇田川や河骨川などの合流支流が暗渠化されているが、目黒川も同様にほぼ同じ位置よりも上流が暗渠化されていることが解る
そして、渋谷区神山町出身のオレにとって"山手通りの向こう側"にあるのは"駒場東大".....東京大学駒場キャンパスだった。
1963年(昭和38年)の、空から見た広大な東大駒場キャンパス。丁度山手通り沿い/三田上水沿いが敷地の東端となる
2006年撮影、オレが腰掛けているのは東大駒場キャンパス敷地の東端、このコンクリートの下に三田用水の管が通る。目前の山手通りの向こう側が生家のあった神山町である
まさに東大駒場キャンパスと山手通りとの境目となる三田用水
京王井の頭線・駒場東大前駅。渋谷から3つ目(渋谷〜神泉〜)、下北沢へも3つ(池の上〜下北沢)。元々1933年(昭和8年)の井の頭線開業時に西駒場駅と東駒場駅、その後名前を変えて駒場駅と東大前駅、というふたつの駅が存在していたが、1965年(昭和40年)に両駅を廃止して真ん中に出来たのが駒場東大前駅。当然乗降客の多くは東大生の皆様、今でもごくたま〜に学ラン+下駄姿の勇壮な"東大生"をお見かけする
1934年(昭和9年)、井の頭線誕生翌年の路線図
駅前南側は御覧の通りの谷底地形
駅の北側すぐ眼の前が東大駒場キャンパスである
東大駒場キャンパスは教育学部/理学部などの"駒場I"と、生産技術研究所などを持つ"駒場II"のふたつのキャンパスによって成り立っている。そしてこの駒場キャンパスはかつての"駒場農学校"であり、井の頭線を利用する方は覚えがあるかも知れないが、渋谷から吉祥寺方面へ向う際に左手に水田が見える。これが歴史と伝統の実習用水田、ケルネル田園である。
京王井の頭線沿いに広がる水田、ケルネル田園。ドイツ人農芸学者・オスカル・ケルネルによる駒場農学校の実習用田園であることからその呼び名となり、もちろん現在でも使用中の100年モノの田んぼであり、近代農学発祥の地と言うべき場所だ
オスカル・ケルネル(1851〜1911)。農芸化学者であるケルネルは1881年(明治14年)から1892年(明治25年)までの12年間を駒場農学校で農芸化学教師として過ごし、日本の土壌肥料学や施肥技術などの発展に尽くした。本人は日本永住を希望していたが、祖国ドイツの農事試験場長就任の要請によって叶わなかった
昭和初期の水田実習の様子。水田の先には京王井の頭線の土手も見えるが、現在残っているケルネル田園はごく一部でしかなく、写真は現存のものよりも北側にあった水田
.....渋谷から下北沢へ向う電車の中から見える風景としてはひと際衝撃的なケルネル田園。それが大学の敷地内であったことを考えれば21世紀の現在まで保存されていることは納得が行くが、そもそもそういったものを作るには、当然ながら地域に農業に適した条件が求められた筈である。もちろん"渋谷と下北沢の間"というキーワードで現在の姿を考えた時にその答はあまりにも絶望的だが、本来ここは現在の明治神宮/代々木公園あたりからの広大な代々木原から続く、"駒場野"という約15万坪に及ぶ原野だった。幕府は駒場野を鷹狩りの地に選び、多くの鳥獣が暮らしていた。そこに駒場農学校が出来、ケルネルにより近代農学発展のために使われたというワケなのだ。そして現在、ケルネル田園の一部を残して付近は公園整備され、地元の人々の憩いの場所となっている。
京王井の頭線・駒場東大前駅の眼の前にある"駒場野公園"
鬱蒼と茂る木々による緑豊かな園内
.....オレだ(爆)
駒場野公園敷地に隣接する現存のケルネル田園。渋谷からふたつ目の駅で眼にする、奇蹟の光景だ
1987年(昭和62年)に建てられた水田の碑。ここが日本初の実習田であることが記されている
ケルネル田園へと水を供給する池。池自体は湧き水により成り立ち、ケルネル時代にはそこに三田用水からの分水を加えて稼働していた
池からケルネル田園へと続く水路。当然いまでも健在
代々木原から駒場野へと続く広大な武蔵野の原野は、"お米の国"である日本の農業文化に大きく恩恵を齎した。が、皮肉にもその発祥の地ではその後100年あまりで都市化が進み、農業とは対照的な文化によって成り立っている。だからこそ、こうした風景が残されているのは奇蹟であり、そこを保存して駒場野公園とした付近住民の方々の想いと努力の結晶の形でもある。
駒場東大前駅を挟み、駒場野公園の反対側の北口改札眼の前に東大駒場キャンパスへと繋がる門がある。写真右手がやや高台となり、左手には窪みが見える
この窪みの正体は.....
驚くなかれ、道端を流れる小流である
.....東大駒場キャンパスの敷地脇を流れる小川。何度も言うようだが、渋谷からふたつ目の駅の前に広がる光景とは信じ難い。が、その小流には柵もなく、川底は限りなく自然に近い石で構成されており、これまで公園や遊歩道などで見かけて来た"設備型"の水路とは明らかに違う、自然の小川に極めて近い状態でそれは流れている。
流れが確認出来る最上流部。流れはこの奥の駒場小学校方面からやって来るらしい
一段深くなっている最上流部の窪みには小さな魚やザリガニの姿も.....恥ずかしながら(?)、オレは池ではなく小川にいるザリガニ、というのを初めて見た!。それも東京で!!。しかも渋谷の隣で!!!
小川の反対側はまさに鬱蒼とした森、これが本来の駒場野/武蔵野の姿なのだろう
実は、京王井の頭線・駒場東大前駅前の窪地には3つの"自然の流れ"が集まっている。ひとつはケルネル田園の池、もうひとつはこの駒場小学校方面からの湧き水、そして最後のひとつは東大駒場キャンパス内の"一二郎池"こと"駒場池"である。
一二郎池の名は、本郷キャンパスにある"三四郎池"を捩って命名されたそうだが、広大な東大Iキャンパス内の渋谷寄り端部にあり、かつては養魚池としても使われていた細長い池である。それでも周辺整備の中で生き残り、この地が広大な駒場野であることの証しとして今も残る。現在の"駒場池"の名称は2008年(平成20年)に学内の公募で新たに付けられた名称だそうである。
東大駒場Iキャンパス内の一二郎池こと駒場池。本郷の"三四郎池"同様「ひとりで見に行くと浪人/留年する」というありがたくないジンクスがあるそうだ
1947年(昭和22年)米軍撮影の航空写真に見る東大駒場キャンパス内の一二郎池。見ての通り、山手通り/三田用水がキャンパス敷地の境となり、右側は渋谷区、左側は目黒区となる。渋谷区側には松濤公園/松濤池があり、こちらも三田用水からの分水を受けていた。渋谷区と目黒区という違いはあれど、同じ代々木原/駒場野の隣接する湧き水池である
.....そして、これら3つの流れはここから更に低地へと向って流れて行く。駒場野の原野を流れた小流、"空川"となって。
3つの水源を持つ小さな川"空川"は、京王井の頭線・駒場東大前駅近くの谷地からその流れをスタートする。流路はある程度暗渠となって地上から確認出来る
立ち入り禁止区間のため、荒廃した区間も多い
蛇行する路面にはシートが掛けられている
右手(右岸)は切立った崖となっており、空川の流路が相当な深さだったことを物語る
流路は時折、道路より更に深い位置となる
併走する商店街は地形/空川に合わせてか蛇行している
住宅街の真ん中を突っ切る暗渠。暗渠化以前の最終的な流路の細さを物語る
もはや地元の人々でも利用しないほど鬱蒼とした流路跡。全行程の1/3程度は通行禁止区域である
マンションの建ち並ぶ崖線には"防災緑地"の表示
急激な崖を持つ谷地形により、右岸には各所に柵が設けられている。落石や侵入防止のためだろうが、中には暗渠化以前の護岸壁そのままと思われる状態の古いものも見られる
切立った崖の上からは配水管が流路下へと向っている
空川の流れによって出来た駒場野は、三代将軍・家光が好んで良く訪れていた鷹場でもあった。約300年前の享保時代、広大な原野には幕府による御用屋敷や将軍休憩用の屋敷も多数備えていた。その後"生類憐れみの令"により鷹狩りが禁止となった後、吉宗が駒場野の鷹狩りを復活させた。これによって幕府と駒場野の関係は長く、そして密接となり、後年まで駒場野周辺の環境保全が実現したのである。
空川暗渠沿いの景色は駅から離れるに連れ、徐々に"昭和"の色濃いものとなって行く
恐らく開渠時代最後の姿であろう空川。その細さは最終的に民家の排水以外の役割を負ったとは思えないサイズのものである
流路は目前に迫る大きな通りの下へと向う
その頭上に通るのは淡島通り。東急バス"松見坂下"停留所
京王井の頭線・駒場東大前駅付近から流れた空川は山手通りと淡島通りの交差点付近である"松見坂下"バス停下を潜っていた。
松見坂とは、今から450年ほど前、"山賊"だった道玄太郎がこの付近にあった松の大木に登り、獲物になりそうな旅人を物色していたことからその名がついた、と言われる坂である。ただし現在の松見坂は都市化による新しい道であり、実際には淡島通りの下に旧・松見坂の一部が残っているのみである。そして、この松見坂下/淡島通りに架かる空川の橋は"遠江橋"といった。しかしこれも、暗渠化直前の時期に既に淡島通りが整備されていたことにより、現在の流路上/最後の橋は"新遠江橋"という橋だった。松見坂と淡島通りの整備は1913年(大正2年)のことである。
そして、淡島通りとは1602年(慶長7年)に甲州街道が出来る以前、渋谷と府中を結ぶ"滝坂道"の後の姿である。
渋谷側から見た松見坂交差点。横に走るのが環状六号線/山手通り、縦が淡島通りで、交差点の向こう側に見えるのが松見坂下付近である
淡島通りから見下ろす旧・松見坂
傍らには"松見地蔵"が祀られている。一説にはこちらが松見坂の地名の由来だとも言われ、古くから付近の方に大切に守られているよう
バス停付近の植え込みからは下水道局の清流復活事業導水管が顔を出す。設置の日付は1995年(平成7年)3月
淡島通りの歩道には松見坂のふたつの由来について彫られた東京都による碑が建つ
淡島通り/松見坂、新遠江橋を過ぎたあと、空川流路は住宅地の奥へと進み、やがてその姿を消してしまう
駒場野の小川・空川は、またの名を"駒場川"とも言った。その流路の大部分は、大正から昭和初期にかけて暗渠化された。長く江戸幕府によって守られて来た駒場野の自然も、駒場練兵場や農学校などの"広大な敷地利用"に選ばれた地域以外は戦前にその姿を変えてしまったのである。大正以前のこの付近は広大な田園地帯であり、駒場野を流れて来た空川は放射線状に多くの水田を潤したのだという。そしてその姿は都市化/宅地化によって完全に失われ、現在ではその流路を追うことは不可能になってしまった。ただ、その合流位置すら不明瞭なものの、空川の最終的な合流先は"目黒川"である。
1963年(昭和38年)の米軍撮影航空写真に見る空川の流路図。駒場小学校/ケルネル田園からの流れに一二郎池からの流れを合わせ、淡島通りを潜って池尻付近の多くの水田を潤すために放射線状に広がり、それらは目黒川へと合流していたらしい。が、宅地化と開発が進んだ現在では池尻以降の流路は全く不明なため、図の点線部分は予想である
no river, no life初登場となる目黒川は烏山川/北沢川が三宿付近で合流し、1本になった以降の名称であり、国道246号線/池尻大橋以降は開渠となる二級河川である。ちなみに"品川"とは目黒川が現在の天王洲アイル付近で東京湾に注ぐあたりで運河として活用され、"品の行き交う川"という呼び名があったことによる。つまり品川は目黒川の下流のこと
池尻大橋。三宿の烏山川と北沢川の合流点から数百mの間は暗渠遊歩道だが、ここから目黒川は街の中を悠然と流れて行く。流れる水は清流復活事業による再生水.....北沢川緑道などでは清流復活による"せせらぎ"が観られるが、それらの流れと同様、松見坂にあった導水管も空川からの流れが合流している証し、と言えるかも知れない
目黒川は桜の名所としても有名であり、花見シーズンには大勢の見物客で賑わう
目黒川は丁度渋谷川の西側を流れており、烏山川/北沢川の合流によって形成される点が穩田川/宇田川の合流によって渋谷川が成り立つ様と非常に良く似ている。元は代々木原〜駒場野は広大なひとつの原野だが、そのふたつの河川を分けるのが両河川の中流域にあたる渋谷の南平台・桜ヶ丘、鉢山、代官山、そして西郷山などであり、その西の尾根伝いに流れるのが目黒川なのである。
ちなみにオレのオフクロは中目黒の目黒川沿い出身である。付近には今でも古い友人の経営する美容室があり、以前はオレもちょくちょくお世話になっていた。そして、目黒と言えば.....オールド・ファンの皆様(笑)には御馴染みの老舗ライヴ・ハウス、鹿鳴館だ。
JR目黒駅から目黒川の谷に向って降りる坂は"権之助坂"。江戸中期、目黒の名主・菅沼権之助が幕府の許可なしに新しい道を作り、刑に処されてしまう。それを嘆いた地元の人々がこの坂に権之助坂の名を冠した、とされる
左が現在の権之助坂、右が小中期の姿。正直、大きく変わったとは言えない、昔ながらの商店街である
で、この権之助坂の中間あたりにあるのが1980年(昭和55年)オープンの老舗ライヴ・ハウス、目黒鹿鳴館。ちなみに当時はジャパメタの聖地、現在はV系の聖地。20代の頃のオレの完全なホーム、現在のブッキング・マネージャーのP氏とはその頃からの付き合いになる
.....ま、"自分との因果関係"なくしては語れないのがココno river, no life。あーだこーだ言わず、ココでオレの鹿鳴館での姿を出すのが筋ってモンだよな.....。
ハイ、ドーゾ。
初めて出演したのは18歳、最後は.....30代中盤くらいかな?。とりあえず合計100回は演ってるであろう、オレの本当の意味での"ホーム"。多くのアイデアや経験値を齎してくれたハコ
月に1回は確実に演ってた鹿鳴館。今回久々に訪問したが、中の様子はほぼ変わらず。ちなみに1997年(平成9年)12月27日、その年の鹿鳴館の動員記録を一瞬樹立!。何故一瞬なのかというと、4日後の大晦日に某・皆知ってるV系大御所レーベルのカウント・ダウンで塗り替えられちゃったから(苦笑)
そして権之助坂を下り、山手通り手前にあるのが目黒川/目黒橋。.....寒い中、ここから遠巻きに出待ちしてくれてたファンの人達の笑顔は忘れない
....."近くて遠い"目黒。山手通り、三田用水、西郷山、そして東大駒場キャンパスを隔てた渋谷の"向こう側"。そこには代々木原に通じる駒場野があり、渋谷川に良く似た目黒川があり、そしてそれらを隔てた多くの山々があった。"江戸時代"にカテゴライズされるいくつものイベント、そして近年まで残っていた小流達。
が、まだそこにはそれ以前/江戸時代以前の伝説の謎を解く答はない。ただし、その地形に多くの繋がりがあることは解って来た。
渋谷へ戻ろう。最後の鍵は"円山"だ。
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