第五章・桃園川complete
第五章・第八節/桃園川北側支流

以前、オレの3、4件目の住まい付近である神田川笹塚支流を紹介(第三章・第四節)した際に、本流とされる流路の北側に小さな支流が並走し、さも双子の川のようだが北側の支流は暗渠化されて以降不遇な扱い、という印象を持った。事実、残された遺構は神橋ひとつのみ、それがなければ誰も河川暗渠とは気付かないほど、細々とした生活道路でしかない北側支流は、在住当時に気付かずに近道として使っていたオレには衝撃的なものだった。
.....実は桃園川にも小さな双子の弟が、それも神田川笹塚支流と同じ、北側に存在していたのである。
本流と同じ谷筋の北側に、グリーンベルトと車止めで固められたこの名もなき川、オレは「もしや」の期待と疑問を抱いて辿ることにした。

1963年(昭和38年)の航空写真に見る北側支流(明度処理部分)。日大二高グラウンド(左上)から来た流れが本流(下)の北側を併走し始める。写真中央を良くみるとまだ蓋がけが完了しておらず、開渠状態なのが解る

日大二高は1926年(大正15年)にこの地に建てられており、残念ながらそれ以前の航空写真など存在する筈もなく、筆者のオレにとっては謎のままである。が、何しろここは天沼。多くの河川の水源と成り得る湧き水ポイントがここにあったとしても、ちっとも不思議じゃない
河川の暗渠発見に関わる条件として"学校などの公共施設"の存在がある。しかしオレ自身は幼稚園(渋谷幼稚園/渋谷川沿い)を除き、小中高とずっと高台の学校ばかりだったのでピンと来ないが、どうやら学校/それも校庭などの下あたりは河川が通っていることが多い。前節の"すぎしち"(杉並第七小学校)などはまさにそれで、住宅街の中に学校が存在するのは当然であり、更にこの一帯は戦後多くの住宅/アパートが建ち、それ故に公衆浴場も必要と来れば、そこに河川がない筈がない。

この北側の暗渠道は天沼1丁目にある日大二高、日本大学第二高等学校の裏手から始まっている。
日大二高裏手から住宅の瓶の間を縫うように、石蓋暗渠が始まる
しばらく進むと、道路にぶつかる手前に排水溝があり、その上に不思議な柵が乗せられていた。用途は不明だが、おかげでバイクなどが入って来られないことは確かである
同じ位置から通り側を見る。左手にコインランドリーがあるが、ここがかつて銭湯かクリーニング店だった可能性は高い
流路が道路に当たってカーブする位置。手前にある慈恩寺というお寺を挟み、写真右手の自転車が差し掛かっているのが桃園川本流。その間数mである。また、昭和初期まで慈恩寺の裏手は沼地だったという
遊歩道状に整備され、桃園川本流と平行するように進む北側流路。こちらは典型的なカマボコ路面
.....そしてお約束の金太郎の車止め
松山通り商店街を渡り、前方に見えて来たのは阿佐ヶ谷の谷底・中杉通りである
中杉通りには1424年(永享元年)創建と言われる世尊院が建つ。1970年代に中杉通りが拡張され、世尊院は通りを挟んで東西に分割された。また中杉通りの1本西側にある松山通りが旧・中杉通りであり、現在は活気のある商店街となっている。
そしてこの中杉通りという、南北の見晴らしの良い位置から周囲を眺めると、"阿佐ヶ谷"の意味が手に取るように解る。そこは浅く、けれど大きな谷底である。そして、どんなに宅地化で平坦になったとは言え、この北側流路跡と桃園川本流流路が共にこの谷底を流れていることを改めて体感出来る。
中杉通りに建つ世尊院

1947年(昭和22年)GHQの航空写真に見る阿佐ヶ谷/中杉通り付近。左手に縦に通る道が旧・中杉通り、つまり現在の松山通り。現在の中杉通りはまだ影も形もない。地形に合わせてか人工的にか、ほぼ同じように弧を描きながら本流北側(上)を進む
左は1950年(昭和25年)、右は現在の中杉通り。コンクリート舗装もけやき並木もなく、面影は浅い谷地形のみ
中杉通りを渡ると、石蓋暗渠と生活道路、という暗渠化当時/高度経済成長期の宅地化事情が良く解る状況が繰り返される
阿佐ヶ谷中央公園脇を進む北側流路。この公園付近は戦後まで広大な水田だった
流路前方に銭湯が見えて来る
銭湯・玉の湯。流路は銭湯入り口正面(!)で右にカーブし、そのまま銭湯を迂回する形で脇を進んで行く。銭湯が先か水路が先か.....裏手か横に水路、が通例な中、こういう状況は初めて見た
水路時代の情景が眼に浮かぶ緩やかなカーブ
やがて見覚えのあるカラフルな建物.....ゴルフの石川遼君で御馴染み、杉並学院高校。桃園川本流の丁度反対側である
住所が阿佐谷北から高円寺南へと変わる場所。ここからの流路は非常に狭くなる
しばらく続いた極細の流路はやがて突然カーブし、一般道に紛れ込む
一般道を跨ぎ、アパートの隙間で再び姿を現すと、前方に空間が見える
北側支流暗渠が辿り着いたのは桃園川緑道/内手橋付近。つまり本流への合流であった
辿り着いた先は、所謂"桃園川本流"暗渠緑道である。単純に考えれば、ここで北側支流は南側の本流に交わって終わる、ということ。
.....しかし、だ。
地形、幅、規模、流路。人間は自然界の幾つかの要素を足して割り、そこに解りやすく、後々まで使える便利な名称を付け、区別する。そしてそれらは"地図"という更に便利なツールを通して見た際、人々の生活、特に住居や道との兼ね合いが見て取れる。これは自然か?それとも人工的か?、更に、本当に元からこうだったのか?、などである。

.....オレが抱いた疑問は、ズバリ「これは桃園川そのものではないのか?」というものである。
現在暗渠されている、都心部の町中に存在する流路は、当然だがオリジナルの流路ではない。元々の複雑な流路、いくつにも分かれたり合流したり、を繰り返す小河川の集合体を宅地用に整備し、コンクリート護岸によって人工的に生まれ変わった水路を、高度経済成長期に蓋かけしたのが現在の暗渠のスタイルである。
だとしたら、今オレが歩いて来たこの暗渠道もオリジナルの桃園川の一部、或は全く違う流路だった本流に対し、お互いの流路共に、農村地帯に合わせて人工的に作られた全く同格の用水路用流路、と考えるべきなのではないか?。用水として使用されたのなら、水を供給する灌漑用の本流に対し、排水するもう1本が無くてはいけないのではないか?。
または良く大きな河川に見られるように、南北の流路の間は所謂中州のようなものと捉えられるのではないか?。互いに同じ谷筋、特に慈恩寺のあたりは桃園川本流暗渠との距離が近過ぎ、付近での一旦合流/分離など、様々な可能性を見ることが出来る。
.....つまり。
桃園川とその流域をcompleteすることなど、不可能だということである。

.....果たしてこれは桃園川の双子の支流なのか、実は本流なのか、それとも人工的な用水路でしかないのか。
その答はこの谷筋だけが知っているのかも知れない。

>>「第五章・第九節/小沢川との切ない縁」へ


copyright (C) 2005-2013 www.kasetatsuya.com