第六章・熱中時間がくれたもの
第六章・第三節/旧道と島状緑地
本来当然のことであろう"川は1本じゃない"にようやく着眼したオレ(←バカ)には、もうひとつ別の気がかりがあった。河骨川/宇田川を下るにあたり.....いや、オレ自身の生活圏内に於いてやはり避けられないもの。小田急線参宮橋駅からNHK前まで、つまりワシントン・ハイツが東京オリンピック開催時に返還された際に作られた外周道路脇に残る"旧道"の存在、である。
代々木九十九谷から渋谷川の合流へと流れる河骨川/宇田川の谷に沿って作られたこのクネクネと曲がった道は、代々木練兵場がワシントン・ハイツとなり、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催時に新たな外周道路が作られた後、現在もそのまま存在している。そして、その旧道と外周道路の間に、44年間何も建設されない島状のスペースがそのまま4カ所残っている。内2つは公園、残る2つは単なる緑地スペース。
.....元より、この旧道の正体はいったい何なのか、そして、残された島状緑地の存在は何を意味するのか。

1964年(昭和39年)、高度経済成長が進み、東京オリンピック開催を間近に控えた代々木5丁目/河骨川流域。広大な敷地に広がるワシントン・ハイツ。左側は明治神宮である。手前の建物群はオリンピック開催時に選手村となり、既に前方には代々木第一/第二体育館やNHK放送センターが完成しているのが解る。ワシントン・ハイツを周遊するように作られた新しい外周道路の外側は、経済成長で宅地化のピークを迎えつつある。が、ワシントン・ハイツ敷地内の建物群とのスケールの差が対照的に見える
ワシントン・ハイツ外周道路の現在の様子。左手は1967年(昭和42年)開園の代々木公園となったワシントン・ハイツ/代々木練兵場跡地、右手に小公園を挟んで河骨川暗渠が走り、春の小川記念碑が建つ
第四章・第三節"渋谷川下流・渋谷村"でにも記しているのだが、この外周道路を渋谷駅方面へ進む際、西側(右手)に4つの"旧道"が残されている。いずれも、外周道路の脇にある島状の緑地帯を回り込むように並走/合流を繰り返すような形になっている。一般的(渋谷の暗渠事情に詳しい皆様の)には2つ、丁度代々木公園西門前の2つの小公園(内ひとつには春の小川記念碑が建つ)が思い浮かぶだろうが、28年間宇田川/河骨川流路沿いに暮らし、利用して来たオレ、ワシントン・ハイツのことなどつい最近まで知らなかったオレにとっては、渋谷へ向かう車道沿いに作られた、便利な住人用道路としか思えていなかった。今回は、この4つの島状緑地を中心に河骨川/宇田川流域の最東部分の流路痕跡に迫る。

外周道路の左側に点在する、河骨川流域の島状緑地郡。写真の3つの内サイズの大きな2つは小公園化され、残るひとつ(最北)は植樹スペースのみ。いずれも1964年(昭和39年)の外周道路建設以前は緑地左側の道のみで、代々木練兵場/ワシントン・ハイツ時代にはこの道が全てだった
ひとつめは小田急線参宮橋駅の先、河骨川暗渠道が線路沿いに始まる、丁度代々木公園とオリンピック記念青少年総合センターの間あたり。河骨川暗渠道にピタリと並走するような位置/形である。
最も北側にある島状緑地は、まさにデッド・スペースである。狭い一方通行の旧道と外周道路に挟まれ、約60mほどの細長い三角形状
中央部分から西側を見ると数m先に小田急線の踏切。その手前は河骨川暗渠/北星橋跡である
.....小さ過ぎるからそのままなのか、そのままにしておいても構わないからなのか
2つ目と3つ目は大きく、しかも並んで存在し、どちらも小公園として使われているスペース。8歳でこの地へ引越し、オレが過ごした期間、ここは完全に"ウチの前の公園"だった。北側は代々木小公園北地区、南側は代々木小公園南地区.....ところが2008年(平成20年)、それぞれ"はるのおがわコミュニティパーク"、"代々木深町小公園"へと名称変更された。
左手に代々木公園を持つ、外周道路上から2つ目の島状緑地を見る。ひとつ目に比べ遥かに大きく、中は公園。この景色に見覚えがある方もいるかも知れない
公園内から西側を見たところ.....オレの後方に小田急線が走るこの場所は、春の小川記念碑の眼の前である
つまりこの記念碑は旧道沿いに建っているのである
"はるのおがわコミュニティパーク"の名は2008年(平成20年)2月に付けられていた。それ以前は代々木小公園北地区、更にオレが子供の頃には代々木第一小公園、という名だった
園内の半分は砂利敷きのスペース、もう半分は自然の起伏を模した緑地スペースである
ここは遊具の他、工作や自然との触れ合いなどの体験学習的な要素を織り交ぜた子供達のためのスペース、というコンセプト
数年前まで何もなかったこの小公園に"はるのおがわコミュニティパーク"の名が付けられたことは、大きな変化の証しである。記念碑が建ち、オレのような愚かな者がその事実を知り、そして受け継がれて行く。それが例え都市化の上の緑化であったとしても、暗渠化後44年を経て、ようやくここが春の小川の舞台であることが語られ始めたのだから。
はるのおがわコミュニティパーク沿いの旧道から、外周道路に向かわず一直線に南へ向かう道。地元の人間以外の利用者はまずいない
はるのおがわコミュニティパークから15mほど先に、3つ目のスペース
隣のはるのおがわコミュニティパークと造りは酷似しているが、名称は代々木深町小公園、かつての代々木第二小公園である。.....ちなみに、"深町"は現在の住居表示からは消えてしまっているので、何故今更この名になったのかは不思議。が、隣の春の小川記念碑が建つ方を"はるのおがわコミュニティパーク"とした以上、もう片方にも「この辺りのかつての名称を」と考えたのだとしたら理解は出来る
外周道路から公園を挟んだ旧道。写真右手へと進むと河骨川暗渠、旧道からほんの5mほどである
.....こうして見ると、旧道自体が流路に見えて来る
その先(下流)、オレの生家付近の外周道路の様子。このあたりは元より道がくねっており、どうやらその理由になっていそうな流路跡の存在が前節で明らかになった。それが"宇田川東支流"である
上の写真は1962年(昭和37年)、既に返還/東京オリンピック開催が決まっているものの未だワシントン・ハイツ時代の外周道路/現・NHK放送センター付近。下はほぼ同一箇所、番組on airでも使用された"捕まった宇宙....."じゃなかった(爆)、1965年(昭和40年)母と祖母に手を引かれる1歳のオレ。右手は既に造成中の代々木公園/織田記念フィールド。.....勝手にこの写真を全国放送に使ったからオフクロに怒られた(笑)
.....そして現在。くねった外周道路は40年以上前と一緒。被写体は劣化(.....)
最後/4つ目はNHK放送センター前、第四章・第三節にも登場する、宇田川暗渠沿いの小さな緑地である。ここは当時の調査で"池があったために避けて道を作った"との事実を知っていた。もちろん、これまで他の島状緑地の存在と結びつけて考えたことがなくはないが、こうして上流から辿って来るとあらためてその造りに自然の力を感じる。

NHK放送センター西口前にある第4の島状緑地。流域は既に河骨川下流の宇田川沿いである。手前(写真上)の外周道路のカーブも含め、代々木練兵場/ワシントン・ハイツ側の崖線ギリギリに位置する
NHK放送センター前の島状緑地。最上流のものよりは大きいが、もちろん公園化するほどの広さはない
島状緑地正面に聳え立つNHK放送センター。緑地中央には、横断歩道を経て放送センター西口正面玄関へと真っすぐ繋がる道がある
第四章・第三節でも紹介した北側の窪み部分。大きさ、構造、現状.....全てが"池"と考えるのが相応しい状況である
"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"資料本に掲載されている1909年(明治42年)測図の宇田川流域。右上/代々木練兵場と書かれた上の池がこのNHK放送センター西口前の島状緑地と思われる
この地から代々木八幡へと引越した1972年(昭和47年)以降、残る4年間の小学生生活をオレはバス通学で過ごした。渋谷区役所裏の大向小学校(現・神南小学校)から最も近いバス停は"渋谷区役所"だが、オレはこの島状緑地の前にある"放送センター西口"からバスに乗っていた(ちなみに当時はその間に"宇田川町"というバス停も存在した)。理由は、同級生達と一緒に帰る時間/距離を稼ぐため。ここから2軒目の引越先までバス停はふたつ.....たったそれだけの距離なのに、学区は別。
オレ以外にもうひとり、オレが降りる"代々木公園西門"の次、"代々木5丁目"を使う女の子がいた。彼女の家は河骨川/北星橋の踏切付近、最初の小さな島状緑地のある場所だった。
外周道路はNHKを回り込むように左へ。上り坂の途中には国木田独歩住居跡があり、その上にオレの母校/渋谷区役所/渋谷公会堂(現・C.C.レモンホール)/代々木体育館などがある
母校・大向小学校(現・神南小学校)正門前。もちろん当時は宇田川の谷を見下ろす位置であることも、眼の前が練兵場だったことも知らない。ただ、二・二六事件の慰霊碑があることで、そこがかつて大事件の行く末の舞台となった場所であることだけはなんとなく解っていた
二・二六事件慰霊碑。ここを通らなければ学校へは通えない
このコンテンツ内で、オレが戦争について語るつもりはさらさらない。が、オレが通った小学校は旧・東京陸軍刑務所の跡地に建つ。1936年(昭和11年)2月26日に起きたクーデターの首謀者17名の刑がこの地で執行された。その魂を慰霊する碑、それが二・二六事件慰霊碑である。
代々木練兵場〜ワシントン・ハイツ、そして旧・東京陸軍刑務所。渋谷の歴史は、残念ながら戦争と切り離して考えることは不可能なのだ。
左は1947年(昭和22年)、GHQの空撮による戦後の我が母校付近。写真上はワシントン・ハイツ、中央の四角い瓶に覆われているのが旧・東京陸軍刑務所敷地。右が現在の同じアングルで、ワシントン・ハイツはNHKとなり、刑務所敷地内にスッポリと渋谷区役所/C.C.レモンホール/オレの母校が収まっている
左は明治末期の"代々木原"、右が現在.....JR山手線の渋谷〜原宿駅間である。未だ国木田独歩の"武蔵野"の時代、線路と周りの土地との高低差が興味深い。この広大な原野に練兵場が出来、第二次世界大戦後にワシントン・ハイツとなり、そして東京オリンピック時に現在の姿が出来上がるのである
.....こうして、白根郷土博物館の学芸員・T原氏の協力/助言を得て、河骨川/宇田川流域の復流路や島状緑地を探索して来て、それら全てが線で結ぶことの出来るひとつのルートであるところまでは確信出来た。そしてそれらは、結果的にオレの行動範囲の中、そして頻繁に利用していた道であり、後世の利便性に於いても意味のあるもの、という確信も身を以て持つことが出来た。
が、ここでもうひとつ気がかりな"1本のライン"が現れた。

前述の1947年(昭和22年)GHQ撮影航空写真。左手に写る黒く太い流れが宇田川、後年井の頭通りとなる中央の道を挟み、崖線に沿って細い水路が見える
前述の1947年(昭和22年)の航空写真にも、現在の同一アングルにも、この崖線はそのまま残っている。.....それどころか、戦後の方には崖線に沿ってどうやら水路らしき影が見えるのである。そしてこの流れの上流には、前述のNHK放送センター前の最後の島状緑地が存在するのである。

旧・渋谷ビデオセンター前から見た問題の"崖線"部。これより上流側(北)はNHKと代々木公園(つまり旧・ワシントン・ハイツ)、下流(南)は現在の公園通り(つまり渋谷駅に向かって下り坂)となるため盲点だったが、その中央に位置するオレの母校の眼の前は"切立った崖"そのものなのである
崖上部分から宇田川の谷方面を見下ろす。土地の造形は、極めて"急激"というべきである
横から見た崖線部分。現在有料駐車場跡地に建設が始まっており、その全貌はつかめない。むしろ、間もなくここは姿を消そうとしているのかも知れない
オレの母校前。東急ハンズのすぐ裏手であり、写真右手に向かって緩やかに下っているが、左手は急激な崖
我が母校前から崖を降り、井の頭通り/旧・渋谷ビデオセンター方面を見る。古い音楽ファンには旧・CISCOの裏、と言えば解るだろうか。崖沿いにビルが建ち並ぶ
崖線とビルの隙間には.....微妙に空間はあるものの、現在そこに水路の跡は確認出来ない
左は1962年(昭和37年)、右は現在.....何処かお解りだろうか。井の頭通り/"神南小学校下"交差点、公園通りから東急ハンズへと降りて来る坂道、つまり前述の崖線のすぐ先である。左の写真の右側、つまり東急ハンズの位置に写るのは1951年(昭和26年)に出来た聖・パウロ教会(現在は目黒に移転/公園通り沿いの東京山手教会とは関係ない)。現在その位置に建つ東急ハンズ渋谷店は1978年(昭和53年)に開業。地元のオレには「ヘンなフロア分けの不思議な、でも便利なデパート」だった。その頃まで、この撮影位置付近には八百屋さんや銭湯があり、もちろんセンター街も今ほどごった返してはいなかった
こちらはその更に先.....同じく1963年(昭和37年)と45年後。現在の写真中央の交番で解る方は多いと思う。渋谷センター街に隣接する宇田川交番である。こうして見るとY字路構造は今も昔も変わらない。衝撃なのは正面のビルが健在なこと。このビルの1階には"兆楽"っていう中華料理店があって、学生の頃(つまり25年くらい前)近くの楽器店でバイトしてた時に良く昼メシ食いに行ってた。この店は今も健在で「毎日食ってます」とはオレの母校裏にあるライヴハウスのマネージャー談
そしてその先は西武デパートA館/B館、つまり渋谷川との合流を目前にした宇田川新水路暗渠上。崖線部分の先/公園通り沿いに緩やかな下り坂となる地形に沿って、徐々に複数の流路が渋谷川目指して進む。1933年(昭和8年)の新水路完成前の宇田川は、センター街/文化村通りを下って宮益橋へと注いでいた。ということは、現在新水路の通るこの井の頭通りの辺りに別の水路があった可能性は高い
.....この下流は既に宇田川旧流路が渋谷川へと合流するポイントへ向かうのみ。つまり、河骨川/宇田川流域の地形と灌漑、という側面で考えた際、ワシントン・ハイツ外周道路脇に見られるこれらの島状緑地郡は、旧道となる以前、全て灌漑用の水路だったのではないか。
実際、4つ全てが河骨川や宇田川の"暗渠化される最後の1本"沿いに存在するが、完全な谷底であるものはひとつもなく、当初から自然の流路とは考えられない。が、元々旧道自体が大きく湾曲していることを考えた時、まず思い浮かぶのは"道が避けるべく何か"の存在である。特に最下流のNHK前には湧き水池が存在する形跡があり、比較的平坦な武蔵野の台地を土地の人々が田園として利用するにあたり、河骨川/宇田川の本流及び湧き水池からの用水路として使用した形状なのではないか。であれば、4つの島状緑地全てが公園化され、建造物を持たない理由も明確になるのである。

河骨川/宇田川流域に於ける4つの島状緑地と崖線路部分。外周道路沿いの4つの旧道と崖線路を繋ぐ1本のラインが見えて来る


こちらは1947年(昭和22年)のGHQ航空写真に、河骨川(青色)/宇田川(緑色)、そして旧道と崖線部を繋いだライン(黄色)を加えた、上の写真と同一アングルのもの。.....河骨川/宇田川"最後の1本"の東側に、明らかに本流/つまり河川の流れに酷似したラインが現れる。果たしてこのラインは旧道となる以前、宇田川最東の支流だったのか、または灌漑/排水用の人工水路だったのか.....それとも、地形の悪戯による全くの偶然の酷似なのか。いずれにしても、旧道の上には何も建設されぬまま現代を迎えていることは確かだ
1964年(昭和39年)生まれのオレには、この説を学術的に立証出来る術なんかないし、もちろん「これが真実だ!」なんていうつもりもない。ただ、長く暮らし、利用し、そして客観視出来るようになった時、"土地利用"という分野での可能性が渋谷にはこれだけあった、ということ。水田が減り、道となり、文化が登場し、そして開発が進む。
約100年の時を越え、その風景に少しだけ近づけたような気がする。

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